どうなる家康 第12回 今川領分割

作 文聞亭笑一

子作りだ、妾選びだなどと・・・ゆったりと流れていた時の流れが、一気に奔流となって流れ出したような前回でした。

武田と連携した今川領攻略作戦が始まります。

この辺り・・・、時間軸を整理しないと混乱しますね。

前回は1567年頃を描いていました。そして今回は1568年です。

家康は徳川に改姓し、三河守に任官して三河の内政に注力していた時期でしょう。

信長は、懸案であった美濃攻略を成し遂げ、上洛を狙っていた頃です。

信玄のジレンマ

一方の信玄はどうだったのでしょうか。

謙信との川中島合戦が続き、甲相駿の三国同盟のしがらみもあって、外への拡大が封じられていました。

戦国最強と言われる軍隊を持ちながら、領土拡張に動けないのです。

唯一、しがらみのない方角が西でした。

信玄は木曽から美濃への道で、織田、斎藤との直接対決を避けて、北アルプスを越えて飛騨へと雪崩れ込む道を選びます。

1564年にこの作戦を実行します。

武田勢のさらなる西進を恐れた信長はゴマスリ外交の限りを尽くし、相互不可侵条約締結にこぎ着けます。

この時には信長の養女を勝頼に嫁がせたりしています。

この時点では美濃の攻略もできていません。

信玄にとっても半年間雪に閉ざされるアルプス越えのルートは難関で、このルートからの領土拡大は期待薄だったでしょう。

となれば・・・標的は自ずと今川義元亡き後の今川領になります。

甲斐から富士川を下れば駿河国、薩埵峠に達します。

信濃・伊那谷から天竜川を下れば遠州・浜松に達します。

どちらも今川領ですが桶狭間以後の内政は沈滞し、活力がありません。

侵略のチャンスです。

現代でも侵略のチャンスとみて、ウクライナに攻め込んだプーチンが・・・見込みが外れて苦戦していますが、今川侍たちの氏真離れは深刻だったようで、信玄の誘いに応じるものが続々と現れます。

ここで活躍したのが甲州碁石金でしたね。

碁石の大きさに整形した金貨です。

こんなものがあれば一度、碁を打ってみたいですね。

いや、五目並べでいい、金と銀とで。

信玄にとってチャンスなのですが、今川義元の時代に結んだ三国同盟が重くのしかかります。

約束事ですから、それを一方的に破棄するのでは信用を失います。

ましてや息子の義信は今川支援派の筆頭でもあります。

武田の家中が割れてしまう恐れがあります。

まずは長男の義信を後継者から外します。

そして、その取り巻きを粛正します。さらには・・・

義信までも粛正してしまいます。

海運を得なくては武田経済圏の将来はないとみての決断でしょう。

それはそれで、天下に向けて動くには正しい判断だと思います。

この時期までの武田の強さの源泉は「産金・甲州金」にありましたが、天然資源は有限であることはわかっていましたね。

1568年、信玄は駿河侵攻を開始します。

そのきっかけになったのは、信長の上洛ではなかったでしょうか。

既存の約束事など守ってはいられない・・・そういう焦りが拡大、侵略への原動力になったと思われます。

「尾張の小僧にしてやられた」「こうなれば・・・もはやなりふり構わず・・・」天下への道に注力することになります。

さらには、今川氏真が上杉謙信との間で攻守同盟を結ぼうと動いたことが開戦の口実になります。

氏真による甲斐への経済封鎖・塩止めもこの頃のことです。

謙信はこの政策を「姑息な・・・」と嫌い「敵に塩を送る」美談へと繋がります。

同盟交渉も挫折してしまいました。

武田信玄は一気に駿府を落として氏真を掛川に追いますが・・・そこから苦戦します。

武田勢力の拡大を警戒する北条が、伊豆方面から武田に攻撃を仕掛けます。

武田軍は富士川ルートの補給路を北条に攻撃されて、兵站に苦しみます。

現代のプーチン・ロシアに似た状況です。

遠州侵攻

家康と信玄の間で「今川領分割協定」なるものがあったのかどうか。

ドラマでは信玄と家康が直接対話していますが・・・劇画、漫画の世界ですね。

実際は・・・互いに使者を派遣しての交渉ごとであるのが普通です。

「約束があった」と松平記、三河物語、甲陽軍鑑のいずれにも記述がありますから「約束があった」とみるべきでしょうね。

協定があったにもかかわらず、武田軍の別働隊は伊那から遠江へと侵入しています。

徳川の抗議で部隊を撤収していますが、駿河への第二の補給路の確保と、徳川の出方をうかがった偵察戦の二通りの狙いだったのでしょう。

しかし、この作戦は北条方の東からの攻撃で、兵力を分散させるわけにいかず、詫びを入れて撤収しています。

東部戦線は北条が優勢で、補給路を攻撃されるなどして信玄の駿河侵略は苦戦続きでした。

家康の遠州攻略は調略が主流です。

外交による成果ですね。

「本領安堵」を条件に、次々と今川を裏切らせます。

二股城の鵜殿一族、犬居城の天野、高天神城の小笠原・・・続々と降伏してきます。

先週の放送にあった女城主「お田鶴」の曳馬城のように、徹底抗戦する今川勢は少数派でした。

そういえば「女城主・・・」という大河ドラマがありました。

遠州井伊谷の井伊直虎・・・この時期に家康に従っています。

井伊直政の伯母です。

美濃岩村城主・・・信長の伯母、武田に攻められ敵将・秋山と結婚して城兵を救う話が残ります。

そうして曳馬城主・飯尾家のお田鶴・・・今川への忠誠を示して玉砕します。

三者三様・・・いずれも「物語」の主人公になりますね。

物語の半分以上は創作でしょうが、戦国時代は「男女同格」で女性は男性に引けを取りません。

男尊女卑、男系相続制が基本となるのは徳川幕府が儒学を持ち込んで以降の江戸時代です。

今川氏真

駿府の今川館は主立った重臣たちのほとんどが武田に寝返っていたため、あっけなく陥落し、氏真は掛川城に逃げ出します。

遠隔地の武将たちまでは武田の調略が及んでいなかったことと、北条氏政との連携で駿府の武田軍を挟み撃ちにする形になったことで、予想外に善戦します。

その意味で武田の駿河攻略は思うほど順調には進みませんでした。

更に、春になると雪が溶けて越後の虎・上杉謙信が川中島へと進軍してきます。

信玄も駿河に長居はできません。

ただ、家康軍の遠江制覇が進むに及んで、掛川城は孤立していきます。

補給が途絶えます。

翌、1569年5月今川氏真は掛川城を開城して、北条の小田原へと逃げ出すことになります。

この時点で室町幕府の主流・由緒ある今川家は滅びました。

その後、北条の客将のような形で小田原にいましたが、1571年に北条と武田の同盟が結ばれると家康の元に逃げ出してきます。

そこから京都に上り信長、秀吉、家康の遊び相手としての人生を過ごします。

政治家、実業家ではなく、文化人として長寿を全うします。