八重の桜 17 会津の焦燥
文聞亭笑一
孝明天皇の崩御は、会津藩の立場をさらに一層に難しいものに変えてしまいました。
天皇の信任こそが容保以下、会津藩の命綱だったのです。江戸の幕府官僚機構からは冷たい目で見られ、新たに将軍位に就いた慶喜からも信頼されてはいません。そして、京の市民からも人気がない中で、一会桑政権の中核を担う立場です。
会津藩と、昨年まで政権を担当していた野田佳彦・元総理、あの人の立場が重なります。
ガマはダメ、鳩はもっとダメ、菅はどうしようもない、軽石幹事長に至っては国を壊す妖怪…と、マスコミ、知識人は民主党政権を見離しかけていました。海外からもロシア、中国、韓国の領土的ゆさぶり、米国、東南アジアはTPPに向けて日本外しが進んでいました。国民の支持率も急降下、歴代最低の支持率の中での政権担当でした。
よくやりましたねぇ。党が割れる、離党者が出るのには見向きもせず、消費増税、国会議員の定数是正、TPPへの参加表明、尖閣国有化…、いずれも正しい判断だと思います。やるべき方向は正しかったと思います。
野田政権を倒した安倍政権が、全く同じ方向に向けてこの国の舵を切っています。
国民の支持率は70%を超えています。
同じことをしているのに、なぜ支持率が50%も違うのか。
問題はそこのところです。
これ以上進めると、別シリーズの「たわごと&笑詩千万」になってしまいますね(笑)
正しいことをしているのに人気がない…。会津藩の悲劇はそこにありました。なぜか?
一言でいえば情報感性のなさと、情報発信の稚拙さだったでしょうね。
さらに言えば、財政、金融、投機…こういった経済知識の欠如だったと思います。
65、膨大な書籍、近代的な医療機器が並ぶ診察室、そして最先端の知識を吸収しようとする若者たち……覚馬は象山塾を思い出さずにいられなかった。勝海舟、吉田松陰、西郷吉之助と出会ったのは象山塾だった。世界は知らないことで満ちていると思い知らされた。学ぶ喜びに震えた。象山との日々は覚馬の青春そのものだった。
青春…という言葉を聞くと…すぐに思い浮かぶのが「青春」という名の詩です。
青春とは人生のある期間のことではなく、心の様相を言うのだ。
歳を重ねたから老いるのではない、理想を失ったときに初めて老いが来る。
歳月は皮膚にしわを刻むが、情熱を失うときに精神はしぼむ。
人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。
自信と希望とともに若く、恐怖と絶望とともに老いる。
大地から、人から、美と喜悦、勇気と壮大な威力を受ける限り、人の若さは失われることはない。
(サミュエル・ウルマン)
読者の大半の方々がご存じで、しかも、実際にこの言葉をかみしめる年齢ですから、あえて引用してみました。青春は過去のものではありません。私の理屈からいえば75歳からが第二の青春時代です。60歳からの15年は環境の変化に戸惑い、試行錯誤の期間ですが、早い人は70歳から、遅い人でも75歳からは第二の青春が開花します。
詩中にある青春の条件は「理想」「情熱」「信念」「自信」「希望」「美」「喜悦」「勇気」
…どれか一つは持ち続けましょう。
さて本題。覚馬は長崎に出張します。目的は新式銃の買い付けでした。この当時の長崎はオランダばかりでなく、イギリス、フランス、ロシア、ドイツなど武器商人が新規市場として競って進出してきていました。武器の値段というのは相場商品です。需要があれば値段は言い値の通り、需要が無くなれば二束三文…そういうものです。
日本はまさに内乱の開戦前夜です。グラバーはじめ、濡れ手に粟の商売環境です。長崎のグラバー亭、観光名所ですが、死の商人が贅を誇った場所だと知る人は少ないようです。
66、見えなくなっても銃を知る手、学んだ知識や魂…修理の言葉が覚馬の胸を思いがけないほど激しく揺さぶった。失明という現実を前に、自分を憐れみ、大切なことを忘れていたのではあるまいか。目を失っても、自分という人間が消えてなくなるわけではない。胸にたぎる思い、蓄えた知識、仲間がある。
失明の恐怖は、言葉には尽くせぬほどのものでしょう。とりわけ知識層の人にとって、情報の入り口が閉ざされる恐怖に陥ります。人間の五感のうち視覚から入る情報量が圧倒的に多いですからね。情報機器と言われるもののほとんどは視覚を基本にしています。
視覚がなくなっても聴覚、嗅覚、味覚、触覚は残りますが、受けとれる情報量は1/3以下になるでしょう。障害としてこれほどつらいことはないと思います。現代では白内障などは病気のうちに入らないというほどで、簡単な手術で快癒しますが、わずか100年前は不治の病だったんですね。医学の進歩はありがたいことです。
高齢化が進めば、目に限らず、センサー機能が衰えます。失明しないまでも視力、聴力の衰えは避けられません。老眼、乱視、難聴・・・
子供叱るな来た道じゃ。年寄り嗤うな行く道じゃ。
高名な禅師の教えですが、まさしくその通りですね。嗤っているうちに、自分が嗤われる立場になります。
土佐藩は、藩主の山内容堂が幕府の重鎮として体制維持、与党の立場にありますが、この藩は創設当時から二つの勢力に分かれていました。進駐軍として乗り込んできた上士たちのルーツは尾張、三河、遠州などの東海地方をルーツにする人々です。一方、藩士の大半を占めるのは、もともとこの地方に土着していた長宗我部侍で一領具足と言われた人々です。維新の前半、京の町で暴れまわった武市半平太。岡田以蔵などがそれで、さらに、この時期に薩長同盟を仲介した坂本龍馬、中岡慎太郎なども下士出身です。
上士は佐幕、下士は討幕…という分裂、対立の中で、上士、佐幕派に属していた板垣退助、後藤象二郎といったところが、龍馬、慎太郎の説得で討幕に転向してきました。薩長に続いて討幕、政権奪取に名乗りを上げてきたのです。
テレビの中では土佐藩が連立政権に名乗りを上げた部分だけを取り上げますが、同様な動きは芸州(広島)浅野家、肥前鍋島家も同じころに討幕連合に名乗りを上げています。この工作は岩倉具視を中心として薩摩の大久保一蔵が推進していました。すでに、錦の御旗などの準備も着々と進んでいます。
この動きに、会津藩も、慶喜も、全く気付いていません。
68、西国諸藩の情報集めにおいて、秋月の右に出る者はいない。秋月抜きでは、会津は情報戦で蚊帳の外に置かれる可能性さえある。
これは国許にあっての西郷頼母の思いですが、情報戦で蚊帳の外に置かれる可能性などというレベルはとうに過ぎて、完全に蚊帳の外でした。全く相手にされていないというか、むしろ京都政局における政敵として、情報管制の対象になっていました。この時期、慶喜は会津藩の支配下にあった新選組を将軍直轄に変え、近藤勇、土方歳三などを旗本として採用しています。この動きも討幕派にとっては目障りです。憲兵隊、ゲシュタポに付け狙われるほど気持ちの悪いものはないですからね。
日本人は外交が下手である…などと言いますが、決して下手ではないと思います。下手なのは人脈を駆使した根回しで、秘密外交を非とする倫理観ではないでしょうか。潔癖感というか、建前ばかりを尊重する考え方で、実利をとることに淡白な性格によるものと思います。それを育ててきたのが江戸期250年の士農工商の身分制度ですね。商いの道を「下賤なもの」として排除してきました。
この傾向は現代にも色濃く残っています。民間外交、国際会議でのロビー活動などを嫌います。マスコミは「清く、正しく、美しく」の価値観で凝り固まっています。汚いことをする相手に「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」などと呑気なことを言っています。こういう人たちが世論を煽りますから、外交ができなくなってしまうのです。
会津藩…徳川将軍に忠実であったあまり、既成観念に凝り固まってしまった集団でした。そのことが悲劇の幕を開けてしまいます。時代の激動期に真面目に過ぎる者の悲劇です。TPPを始め、地球温暖化、核拡散防止、さらにオリンピック招致などまで含めると、これからの外交は課題山積です。建前と本音、いかに使い分けていくか、交渉当事者の力量が問われます。人材の有無が問われます。