水の如く 16 非情の采配

文聞亭笑一

三木の別所勢の離反に呼応するように、毛利が重い腰を上げます。

「重い腰」と表現したのは、毛利家の二人の宰相である吉川と小早川のうち、小早川が慎重意見で、播磨の事態には静観の態度が強かったからです。その理由は、毛利圏と播磨の中間に位置する宇喜多直家の動きが信用できなかったからですが、その宇喜多から上月城奪回の要請が入りました。これを断れば…宇喜多のことですからどう動くかわからぬという不安があります。また、安国寺恵瓊から三木の別所が毛利方に寝返ったという情報が入ります。毛利としては播磨への領土的野心は少なかったのですが、播磨に進駐している秀吉の軍を追い出せば、織田との緩衝地帯が増えてより安全になります。

毛利に領土的野心がないというのは、家祖・元就の遺言でもあります。中国8か国を守って、その周りに緩衝地帯を設け、天下に覇を立てるような冒険をしないというのが基本方針ですから、播磨は既存の勢力が毛利と友好関係を維持してくれているのがベストです。

こういう毛利と、信長というのは水と油のような関係でしたね。

61、信長は力の信奉者で、あくまでも旧勢力を焼き滅ぼすという情熱に駆られており、旧勢力の頭をなでてこれを慕わせようというような、政略的徳化主義と言うものを、毛ほども持ち合わせていない。

信長は改革者というよりは革命家です。何となく…近世のヒトラーやスターリンを思い出させますね。まさに「鳴かぬなら殺してしまえ ホトトギス」です。こういうタイプの人は「粛清」と称して人を殺すことに良心の呵責を感じません。一種の異常人格者とも言えます。

こういう上司を持った秀吉にしても、そのまた配下にいる半兵衛、官兵衛にしても、信長の意を尊重しつつ政略で事を進めようというのは至難の業です。にもかかわらず、二人の軍師たちは政略の努力を続けます。間に秀吉というクッションがありますから、信長から直接睨まれはしませんが、随分と危ない橋を渡ることになります。

官兵衛による播磨の政略がうまくいかないのは、この地方に広がっていた一向宗・本願寺勢力の強さ故です。本願寺は信長の性格を誇張し、断片的にその危険さを宣伝します。播磨の勢力が織田に乗り切れぬ、信じきれぬのは、実はこのことが最も強かったのです。城主が織田方に付いても、本願寺門徒の家臣たちはその決定に従いません。

62、秀吉が評定の座で言ったという言葉を、賀相が誇張して伝えた時、さすがに一座のすべてが青ざめた。別所は槍働きのみをせよ、大将は自分である、軍略は自分で決める、要らざる賢しら口をきくな、と秀吉が言ったという。これほどの侮辱を受けて黙っていれば、別所の播州における威もこれまでである。

別所賀相は当初より毛利方にスタンスを置いていましたから、加古川評定の結果は勿怪(もっけ)の幸いと活用しました。織田派で、弟の重棟がいない留守に、一気に城主の長治を説得してしまいます。「播磨の旗頭」という立場と、賀相が伝える秀吉の意向とは大きな差があります。こういう話を聞けば、別所長治も毛利方を押す叔父の賀相に従うことになりますね。

三木城の別所勢は籠城の準備にかかりますが、その意図を隠して、信長には「中国攻めの拠点とするために城を改修したい」と申し出、許可を受けています。この辺りは中々の外交能力ですね。秀吉の頭を飛び越えて安土に使者を送っています。

離反したのは三木城の別所だけではありません。

志方城の櫛橋左京之亮、…これは官兵衛の妻の実家で義理の兄です。初期に落城

神吉城の神吉頼定…後に荒木村重に包囲され、叔父の裏切りで落城します。

野口城の長井長重…三木城攻防戦では最初の標的にされ開城・降伏

淡(お)河(ごう)城(神戸市北区)の淡河定範…織田軍を悩まし、兵を引き連れ三木城に退散

高砂城の梶原景行…三木城への海上からの食料補給基地として、最後まで抵抗

端(はし)谷(たに)城(神戸市西区)の衣笠範景…三木城と共に最後まで抵抗

このほかにも氏族の単位で三木城に味方したものが数多くあり、その十家を加えて三木の別所勢力、反信長勢力は7500人の規模になります。この数は、秀吉が率いてきた兵員の数と同じです。

播磨の東半分が毛利に寝返ったことになり、御着、姫路は東西に敵を受けることになります。ただ、寝返った者たちも自ら攻撃を仕掛けるだけの力はありません。籠城して毛利の援軍を待つというのが基本です。

63、物を考えるのはすべて頭脳であるとされるのは、極端な迷信かもしれない。むしろ人間の感受性であることの方が、割合としては大きいのであろう。人によっては、感受性が日常機能の代用をし、そのほうが、頭脳で物事をとらえるより誤りが少ないということがありうる。
羽柴秀吉は巨大な感受性の持ち主であった。

秀吉にとってはピンチなのですが、この人の運の良さは、この時期に上杉謙信が死んでしまったことです。信長にとって最大の脅威だった上杉への備えを縮小して、それ以外の戦線に兵力を展開できます。長男の織田信忠を総司令官にして、中国攻めの軍団に毛利と同じ規模の3万の軍勢を派遣してきました。

まずは、本願寺の戦線から荒木村重が2万の軍で転進してきます。更に、滝川一益、明智光秀なども兵を率いて参陣します。岡山県の山奥で上月城を包囲している毛利、宇喜多の軍5万とほぼ同数になりますね。

この軍勢、秀吉にとってはありがたくもあり、かつ、不自由でもあります。信長自身が出てきてくれたら信長の指示通りにやるだけですが、信忠という経験の浅い、若い大将では軍団全体に抑えがききません。それぞれが「信長からの指示」と金科玉条の如く掲げて、秀吉の思い通りに動かないのです。

引用した部分は秀吉の性格と、秀吉と信長のやり取りの中に出てくる場面ですが、「秀吉は感受性で物事を考えている」という仮説が面白いので抜き出してみました。現代でも長嶋茂雄さんのように「あの人は勘ピュータで考える」などと言われるケースがありますが、論理脳(左脳)だけではなく、感覚脳(右脳)をフル活用しているのでしょう。

企業の創業者や特異な能力を発揮する方にはこのタイプが多いようですね。言葉などのデジタル情報で理解するのではなく、情景などのアナログ情報で理解するのでしょう。

64、戦線は全く膠着した。
双方、これだけの大軍を擁して互いにその陣地を厳重に固めている場合、手出しをした方が負けになる。地形が複雑で平地が少ないため、手出しするにしても大軍を動かせず、小部隊を一列に繰り出すほかないが、そうなれば敵が四方の高地から襲い掛かってたちまち潰されてしまう。

上月城は姫路からも、そして岡山からも、遠く離れた山中にあります。中国自動車道の佐用インターの近くです。狭い、山間の集落ですからこの地に毛利・宇喜多勢5万が布陣しただけで人いきれがするほどですね。地図を引用しようと思ったのですが、適当なものが見当たりませんでした。興味ある方はグーグルなどで調べてみてください。

しかも、毛利は慎重なうえにも慎重で、上月城を囲んで蟻の這い出る隙間もないほどに陣を敷きます。その陣も、攻撃のためというよりは防御のための陣地作りでした。

織田方が仕掛けてくる、それを各個撃破して勢力をそいでやろうという作戦だったようですね。上月城に籠る織田方の尼子勢はその意味で罠に仕掛けた餌のようなものです。

織田信忠を大将にした織田軍も5万を超える勢力が進軍してきます。互いに睨み合いますが、引用部分で司馬遼太郎が言うように互いに手出しできません。その間に、上月城の兵糧は枯れていきます。

そこへ、信長から「上月を見捨てよ」という指令が入って、秀吉の思いも、官兵衛の思いも、万事休すです。信長としては中国の山中に軍勢の長居はさせられないのです。本願寺も、丹波も、まだ制圧できていません。