乱に咲く花 20 小党乱立

文聞亭笑一

文(ふみ)さんの物語が、いよいよ動乱の時代へと入ってきました。動乱の引き金になったのは、大老・井伊直弼を暗殺した桜田門外の変で、この事件をきっかけに暗殺、襲撃と言った血なまぐさい事件が頻発します。家康以来250年間、組織暴力事件と言うものはなく、平和な時代が続いていたのですが、テロや暴力を肯定する雰囲気が一気に広がってしまいました。

この「きっかけ」を作ってしまったのが井伊直弼でした。安政の大獄という事件は「暴力解禁」の役割を果たしたとも言えます。自業自得と言えばそれまでですが、仇討という一種の美意識まで呼び覚ましてしまうとは…、直弼本人も草葉の陰で驚いたでしょう。

集団的自衛権容認という法案が、日本人の反戦意識を好戦的に変えてしまうのではないか…と心配する向きがあります。「戦争をしない国」から「戦争をする国」になってしまうのではないかと反戦団体、政党はこぞって反対しています。

思い過ごしのように思いますが…、さてどうでしょうか?

平和を愛する国々の善意を信頼し…と憲法は謳いますが、さて北の将軍さんや、西の中華思想の国は信頼に値する国かどうか? そこらあたりの見分け、認識でしょうね。

物語はしばらく久坂玄瑞と、高杉晋作の動きを中心に回るものと思います。その二人の動きを、今回は取り上げてみます。

この時期の京では、「勅諚」という重々しい形式の怪文書が乱れ飛んでいた。帝の夷人嫌いを楯にして、側近の若手公家たちが「攘夷の勅諚」を捏造し、長州をはじめとする志士たちに手渡していた。かくて、志士たちの正義の巨大な背景は孝明帝であり、更に帝の意志の本質はと言えば、無知と恐怖であった。しかし革命期のエネルギーは、敵方に対する理解から生まれるのではなく、無知と恐怖から生まれるものであろう。

勅諚とは天皇の親書のことです。命令書と言っても良いかもしれません。

この時期の京都では「攘夷を実行せよ」という勅諚、その少し前は「井伊を除け」などという勅諚も出たことになっていますが、孝明天皇がそのような命令書を出したかどうかは御簾の中の出来事で解りません。しかし「勅諚」なるものは何通も発行され、現存していますから発行されています。宛先が違うだけで内容の同じ物もありますから、 複製、偽物もたくさん出回ったのでしょう。その多くは、天皇の秘書官長であった中山大納言の許可を得て、三条実美、姉小路公知などの若手攘夷派公家が作成したようです。

その実体と言えば、鬼畜米英という夷人イメージですね。

ペリー来航時に、江戸で発行された瓦版のペリーの似顔絵が、孝明天皇の知る唯一の夷人情報でした。赤ら顔で尖った目をし、口が耳元まで避けている顔…まるで壱岐凧の鬼です(笑)

こういう話しか、天皇に伝えませんから、天皇は攘夷一辺倒になります。条約などはとんでもない…となります。

こういう勅諚、勅書を誰が仕掛けたかですが、仕掛け人は薩長水土の志士たちです。

薩摩は当初、西郷隆盛が仕掛け人でした。が、奄美に流されてしまい、この当時は有馬新七などの、後に寺田屋で藩によって処断されるメンバーが中心です。水戸藩も密勅事件までは積極的に公家工作をしていましたが、この当時は烈公・斉昭という後ろ盾を失い力がありません。

代わって積極的に工作を始めたのが土佐の武市半平太や、中岡慎太郎、そして長州の桂小五郎、久坂玄瑞です。何となく…無声映画時代の嵐勘寿郎や長谷川一夫が出てきそうな顔ぶれですねぇ。

しかし…新選組が出てくるのはもう少し後です。

この時代、革命勢力化しつつある長州、薩摩、水戸、それに土佐の四藩の士は、互いに他藩に先んじられまいとして焦燥し、馬が厩舎であがくようにして身もだえしている。

司馬遼太郎は革命勢力化しつつあると書きますが、革命思想を持っていたのは長州の久坂以下・松陰門下生だけで、他藩は革命というより政権交代派というべきでしょう。

薩摩は島津幕府を夢見ていましたし、土佐も藩主の山内容堂は頑迷なほどの佐幕主義者です。そして水戸藩は、逼塞している一ツ橋慶喜を将軍に立てて、徳川政権を内部から乗っ取ることを志向します。共通しているのは「攘夷」という掛け声だけで、思惑は入り乱れます。

そうです。少数野党の乱立状態なのです。公家も岩倉具視などは公武一和派で、幕府との連立政権に参加していますし、三条実美などの急進派とは対立関係にあります。互いの共通項はと言えば「尊皇」というイメージだけです。

それに…慶喜待望論が根強く残ります。

どの派が政権を取ったにせよ、諸外国に毅然として対抗できる指導者がいるのか…となると、思い当たる人物がいません。長州の「そうせい公」では外国にも「そうせい」と言いそうですし、薩摩の島津久光は西郷などからも「地五郎(田舎者)」と言われるほどで、大局観がありません。土佐の容堂・・・この人もまた我侭な殿様で、酒乱気味です。しかも幕府信奉者です。

消去法で行くと…慶喜しかいない…となりますが、期待だけが先行していて慶喜にはこれといった実績はありません。烈公の息子で文武両道に秀でるという水戸浪士の宣伝が、虚像、偶像を作り上げている…という状態でしたね。

周布は、久坂が長井雅楽の「航海遠略策」に反対する理由がやっとわかった。
長井の策は公武一和を唱えることによって幕府体制を認め、幕府体制下での日本の繁栄を計ろうとしている。ということは・・・航海遠略をやればやるほど、幕府が多いに太るだけのことである。革命の可能性は遠のくであろう。

久坂の運動は、明らかに革命で討幕です。徳川幕府を倒して、新たな政権を作るという松陰の思想を継承していますから、開国して国力を蓄え・・・という政策とは相いれません。

新たに開港した横浜も、そして江戸期から開港している長崎も幕府直営です。関税として得られる収入はすべて幕府の懐に入り、幕府の財政を潤すばかりです。討幕を狙う久坂が、敵に塩を送る様な政策に賛成するわけがありません。久坂は貿易亡国論を唱えます。久坂の言う通り、横浜開港以来の急激なインフレは全国に広がり、低所得層を中心に生活破壊と言えるほどの現象が起きていました。

ですが、久坂の意見は長州藩の一部の意見にすぎません。仲間である桂や高杉ですら、討幕には踏み切れていません。つまり、革命、幕府を倒した後のビジョンが描けないのです。高杉が外国である上海を見るまで、そして、この時期咸臨丸で太平洋の荒波にもまれていた勝海舟や福沢諭吉などがアメリカ社会を目にして帰国するまで、ゴールなきレースに熱中するのが幕末でした。

遣唐使の上古から20世紀に至るまで、洋行というのはそれ自体が異変であり続けている。
個人がそれによって大衝撃を受け、思想が一変し、時には一国の文化までが変化した。遠く最澄と空海が唐に行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。これほど洋行ということが重大な意味を持つ国、民族はおよそ地球上のどこにもない。

司馬遼史観といわれる観方です。なんとなく「そうだなぁ」と思わせるところが司馬遼人気ですね。文聞亭もそのファンです。

洋行に限らず、新世界、未知の世界に足を踏み入れた時の驚きは格別なものがあります。現代は情報化社会の真っただ中にありますが、文字や映像から得る知識や印象と言うものは、実感としては伝わってきません。どこかに「本当かなぁ?」という疑問が残って、自分にとって都合の悪い情報は抹殺してしまいます。

ましてや幕末のこの時代、横浜や長崎で夷人を見て、話をして、掛け合いをやったことのある人材というのは皆無に等しいと言えるでしょう。「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」という、言い古された言葉があります。「知っていることと、できることは違う」とも言います。

どれだけ洗脳されても、現実を見たとたんに夢から覚めます。道具や機械などは、使ってみないと良さも限界もわかりません。インタネットだスマホだと言ったところで同じことですよね。

高杉晋作が上海で、どれだけの衝撃を受けて帰ったか…。それは彼の実施前、実施後の違いに歴然と表れます。人が変わったように急進派になります。破壊主義者というほどに変わります。

高杉晋作が上海で見たもの、感じたことを司馬遼から列記してみます。

上海における主人は白人であり、全ての支那人は彼らの奴隷のように使役されていた
西洋文明の正体は道具であると思った。道具を作り、組み合わせて巨力を生み出している。
徳川幕府というのは天地だと思っていたが、大名の最大のもので、朽木のように倒せる。

晋作にとって、討幕を決意したのは上海においてでした。晋作にそう決意させたのが、幕府が派遣した上海使節団であったというのが皮肉です。この集団、大半は幕府の役人や旗本の子弟で構成されていました。それに、大藩の大名家の家臣が従者と言う名目で加わります。

長州からは高杉晋作、佐賀藩は中牟田倉之助、薩摩藩は五代才助と、後に明治維新の主役に出る者たちが加わりますが、幕府は貿易実務の事務官僚ばかりを派遣したようです。

司馬遼から引用してみましょう。

この時期の幕府というのは、やることなすことに間が抜けている。
晋作から見れば、貿易調査が目的であったのに、将来の貿易政策、貿易行政を取り仕切るような人材は皆無であった。単なる事務屋、経理屋といった人材か、物見遊山の者たちばかりであった。