次郎坊伝 16 徳政令の裏で

文聞亭笑一

次郎・直虎が今川に屈して徳政令を施行することになりました。政治的敗北・・・ということになります。このことに依って得をしたのは、地域経済の主導権を取り戻した祝田村の禰宜と、そこから上納金を得ている小野但馬です。また、小野但馬は今川家の家臣の格付けとして直虎と同格、ないし、今川政権にあって直虎より上位の位置づけの役割を得たことにもなりました。

直虎は今川家の命令に逆らった罪人・・・有罪、執行猶予の位置づけ小野但馬は直虎はじめ、井伊一族の監視役です。現代でいえば「保護司」ですかねぇ。

今川家の直参旗本でもあります。一方の直虎は外様領主です。今川に屈服した直虎が発令した徳政令を原文読み下しで載せてみます。蜂前神社に残る、この文書が「直虎」と署名した唯一の遺産で、他には「井伊直虎」と名乗った証拠がありません。

祝田郷徳政令のこと、去る年御印形を以て仰せつけられ候といえども、銭主方が難渋するとて今においても落着せず。

本百姓訴訟せしむの条、先の御印形の通りにすることを申しつけるところなり。

前々の筋目を以て名職等受け取るべく候。

銭主方重しとて訴訟を企てるといえど許さざる者なり、依って件の如し。

永禄11年11月9日    関口氏経 花押

             次郎直虎 花押

祝田郷 禰宜 その他百姓ども

要するに、

①永禄九年に今川が命令した通り徳政令を実行すること。

②領主、地主、身分などの関係は従来通りとする。年貢等を受け取っても良い。

③再審申請は受け付けない

ということで、直虎と瀬戸方久派の敗訴という内容を自ら認めた文書ということになります。これは小野但馬、祝田禰宜にとっては「勝訴」の証拠書類ですから、蜂前神社の社宝として大切に保管されました。お陰で、直虎の筆跡が現代にまで残ったと言えます。実際の所、直虎と署名した文書はこれしか残っていません。実に資料の少ない人です。

また、この時点では直虎が当主として認められていた証明でもあります。「名職は請けてよい」とあるのがそれで、井伊領の地頭職は井伊直虎であると認めてもいます。その意味では、小野但馬にとっての完全勝訴にはなっていません。

とはいえ、地頭職(地方長官)である直虎より前に今川家重臣の関口氏経が署名しているところを見ると、どうやら今川家の直轄領である…としたようにも読めます。地頭職は名乗らせるが行政、司法権は剥奪する・・・とも取れます。これまで直平、直盛、直親と今川家の領内介入を拒んできた井伊家から、統治権を剥奪した書類とも読めます。

そうなれば、今川は地頭の直虎を罷免し、井伊谷を今川の直轄領にし、代官として小野但馬を任命したということになりますね。この辺りのことはほとんどわかっていません。

家康と信長

この頃、家康は長いこと苦しめられていた領内の一向一揆をようやく鎮圧し、東の今川に対峙する準備を着々と進めていました。

その一つが、家康の長子・竹千代(信康)と信長の娘・徳姫の婚姻です。この話は信長の方から持ちかけたもので、家康を今川から完全に引き離すための賭けのような申し入れです。家康からすれば、信長の娘を人質に取ったようなもので、利益にこそなれ、負担は全くありません。

言い換えれば「信長が家康に人質を差し出した」ということです。信長は、なぜそこまでして家康を抱え込んだのか、信頼関係の構築…などと云う生易しいものではないでしょうね。信長なりの計算があったはずです。

徳姫は、隣国の三河を監視するために送り込んだ「間者」ではなかったかと思われます。

勿論、10歳にも満たない姫がスパイ行為を働くことなど、できはしません。徳姫を恩着せがましく人質に送り出すからには、相応の家臣団を従わせたはずです。武官、文官、女性、用務員・・・あらゆる方面の、選りすぐりの人材を送り込み、徳川の動きを多面的に監視します。とりわけ、今川から来た瀬名の動きに注目していたでしょう。家康の妻・瀬名は義元・氏真の縁戚ですからね。今川方の間者とも言えます。今川から瀬名に従ってきた者たちもいます。その者たちも今川が送りこんだ間者であるとも言えます。瀬名と徳姫は、その後ずっと・・・織田と今川の代理戦争のような諜報活動を続けることになります。

信長の岐阜城攻撃

徳政令をめぐって直虎が今川に抵抗している頃、信長は長年のライバルである岐阜の斎藤義龍と木曽川を挟んで対峙していました。織田と斎藤のせめぎ合いは、斎藤道三と信長の父・信秀の頃からの因縁の対決です。濃尾平野という日本でも有数の規模の沃土をどちらが手に入れるか、これはそれぞれの勢力の経済力に直結しますから戦いも熾烈を極めます。

信長公記も太閤記も、この辺りの戦については詳しすぎるほど紙面を使っていますね。

とりわけ秀吉が築いたという墨俣城の件などは、日吉丸・出世物語のクライマックスの一つです。農業収入だけ比較したら尾張よりも美濃の方が、はるかに経済力が高かったのですが、信長が始めた楽市楽座の効果で、商工業の分野で織田家の経済力が勝っていました。規制緩和の推進により流通経済に格段の差があったということです。さらに、商人たちのもたらす情報量にも大きな差が出ます。情報は収集するだけでなく、ばら撒くという効果がありますから、庶民は織田家の開放経済による豊かさを喜びます。

美濃の斎藤家も、元々は油商人の斎藤道三が作った政権ですから流通経済には精通していたのですが、道三の開放政策に対し息子の龍興、さらに孫の義龍は保守主義というか、既存勢力を保護する政策に走り、規制強化、管理経済に乗りだしていました。これが、経済力の差になってしまったのです。

物語のこの時期、信長は斎藤義龍の稲葉山城を落とし、城の名を岐阜城に改めています。城下に楽市楽座を施行し、開放経済に改めたのは言うまでもありません。信長が上洛、天下取の構想を以て西に向かうために、後方の三河・徳川は東の勢力に対する防波堤として実に重要でした。人質を送りこんででも安全牌として固めておく・・・この辺りの決断は実に戦略的で、凄いですね。

………今週も2ページにします。