明智光秀 第39回 坊主たちの戦国

文聞亭笑一

信長、光秀、秀吉、家康と続く戦国末期の歴史物語に「敵役」として登場するのが公家であり、寺であり、商人たちです。

とりわけ、寺院勢力が信長の前に立ちはだかりました。比叡山然り、本願寺然り、高野山も信長には非協力的です。

戦国時代、1500年代と言うのは現代と同程度の「温暖化の時代」だったと言われています。

温暖化ということは、米作を中心とする当時の日本社会においては、豊作が続く豊かな時代だとも言えます。

食料が手に入りやすい環境は人口の増加に繋がります。当時の日本の農村では人口増加が急激に進んだと想定されます。

寺院の隆盛

武士の権力基盤も、農民の生産資本も「土地」です。農地です。

労働力があれば開墾して新しい資本・・・農地…の開発を行いますが、農地を開発しても百姓が利益を享受できるような仕組みがありませんでした。税金が増えるだけでした。

従って、開拓、開墾よりも旧来からの農地をいかに守るかに関心が向かいます。

豊かな社会とは、子沢山な社会です。農地を、子供たちに分け与えていたら、三代もすれば・皆が零細農家になってしまいます。

それを避けようと、家督争いで親子兄弟が血で血を洗います。戦国とは、そういうことで、現代の遺産相続を巡る兄弟喧嘩と同じことなのです。

兄弟喧嘩を起こさない方法として利用されたのが「出家」と「奉公」です。

相続人に男子が複数いたら、一人は出家させ寺に預けます。家族に坊主が居れば極楽浄土に導いてもらえる・・・と云う宗教心もさることながら、寺で教育を受ければ、自家の財産を分与しなくても自立していけるという期待がありました。

江戸時代の寺子屋は通学でしたが、戦国時代は小僧としての合宿生活です。

僧として見込みのある者、即ちIQの高いものは高僧としての修行に向かいます。学問の道、教育者としての将来に向かいます。こういう人材は1割程度でしょうね。

IQはまずまずでも、才覚のある者たちは読み、書き、算盤を覚えて、武家や商家などに奉公に出ます。

武家に雇われて中間、足軽になるものが多かったですね。

戦になれば中間は兵糧部隊、足軽は戦闘員として前線に立ちます。武士の人数が必要以上に増えます。

体力のある者は、僧兵として武術を身に付けます。寺に残る者もありますが、武術をアピールして武者修行、戦国大名の元に就活に動きます。この種の「浪人」が世に溢れていました。

山賊、海賊も、武家に奉公しそこなった、こういう連中の「なれの果て」です。

寺は、人的資源に溢れていました。一汁三菜の精進料理と贅沢もしませんから余裕があります。

寺に子供を預けるには「寄進」をします。金納もあれば、米などの物納もあります。更に寺には「市」や「座」を支配する特権もありました。

現代ヤクザの「ミカジメ料」が入ってきます。そういう点では、戦国大名などより財政的にはずっと豊かでしたね。

地域によっては村を丸ごと寄進してくるケースがあります。これは一種の節税です。戦国大名は戦時費用を調達するために増税をします。

6公4民が一般的な大名家の戦国末期の税率ですね。寺の傘下に入れば、普通は5公5民、上手く行けば4公6民です。遠くの寺なら収量を誤魔化せます。

戦国大名・本願寺

信長包囲網を突破した後の戦は、本願寺門徒との戦いとなります。

本願寺は親鸞聖人が起こした浄土真宗の寺ですが、戦国末期は全国に10万に近い兵力を抱えた、戦国の大大名という方がふさわしいかと思います。

宗教団体を装いますが、宗教と言うよりは経済的利権を指向する武力集団でしょう。顕如上人は僧体をしていますが、宗教家と言うより政治家そのものでした。

この宗派は創業者の親鸞以来、妻帯を認めていますから仏教的戒律とは無縁です。

「南無阿弥陀仏を唱えて敵に向かい、たとえ敵に殺されても浄土に行ける」

こういうインチキな思想を刷り込む男は、宗教家と言うよりアジテータですね。テロ政治家です。ビンラディンやヒトラー、オームの松本と同類です。トランプも・・・似ていますかね?

「天皇陛下万歳と叫んで突撃せよ。死んでも神となる、日本国を救う」

戦国から350年の後にも、同様なアジが叫ばれ、多くの日本兵が玉砕しました。本願寺・顕如の伝統的アジ手法による罪です。

中東ではいまだにこの手法が使われ、自爆テロが起きます。人間というのは、進歩しない動物ですね。3000年前からの忠告に耳を貸さないのです。

過ちて改めず、これ、過ちと言う (論語)

意味は・・・間違いは誰にでもある。それは仕方がないが、失敗から学び、考えや行いを改めて、同じ過ちを繰り返さないようにしなさい・・・ということでしょう。

この当時、本願寺勢力は摂津・石山本願寺を本拠に和泉、河内などを支配下に置いていました。

これだけで50万石近い実収があります。更に、朝倉が滅んだ後の越前を手に入れ、伊勢の長島にも精強部隊を送りこみます。

三河を始め、各地の門徒を統合して百万石近い大大名でもありました。

この勢力に西の毛利家、南の雑賀党(紀州・雑賀孫一)、阿波の三好が援軍として加わります。

「籠城する敵を倒すには、その3倍以上の兵力が必要だ」・・・と云われていますが、100万石規模で籠城する本願寺に、織田軍も濃尾、近畿の300万石近い兵力で対抗します。

互角ですね。しかも、戦場は石山(大阪)、越前、長島(伊勢)と分散しています。信長がいかに苛ついても、勝ちきれません。

仏教宗派の戦国

本願寺、浄土真宗は真っ向から新興勢力・織田信長に戦いを挑んでいます。

比叡山延暦寺は、反信長で浅井・朝倉と連合し、壊滅的打撃を蒙りました。

高野山は中立を保ちますが、信長との関係は一触即発です。

浄土宗、日蓮宗などは土地の大名と協働し、宗派としての動きをしません。

禅宗は僧侶個々人の判断で勝手に動いています。とりわけ妙心寺派の高僧は戦国大名の軍師になっています。

今川義元と雪斎禅師、織田信長と沢彦禅師、武田信玄と希庵禅師、武田勝頼と快川禅師、秀吉と南化禅師、毛利と安国寺恵瓊などが著名です。

この他、歴史物語では脇役ですが紀州の根来寺は信長軍団の「縁の下の力持ち」と言った役割を果たしました。

種子島に渡った鉄砲をいち早く国産化し、更に射撃技術を鍛え、鉄砲を使った戦略、戦術研究を真っ先に始めたのは根来寺の僧兵です。

鉄砲の名手と言われた明智光秀も浪人時代に根来寺で鉄砲の訓練をしていたようですね。