どうなる家康 第13回 将軍復活

作 文聞亭笑一

前回は今川家の滅亡を丁寧に追った感じでした。

文聞亭はBSで18:00から観ていますが、今週は本番が終わった後に「氏真と早川殿のその後の生涯」を放送しました。

戦国小説が描かない部分でしたから面白かったですね。

今川家は徳川の高家・旗本として明治維新まで続きます。

戦国大名の今川家は氏真の掛川落城で終わりましたが、武家・今川家は生き続けました。

高家筆頭は忠臣蔵の敵役で有名な吉良家ですが、今川家は高家のNo2の位置付けで1000石取りの大旗本です。

明治維新では朝廷と幕府の仲介のような役割を担い、活躍しました。

早川殿

流浪の氏真を支え、子孫を徳川の高家・旗本に送り込んだのは早川殿の功績だとも言われます。

早川殿は、北条氏康と今川義元の姉との間に生まれた娘ですから氏真とは従妹になります。

駿河では十年もの間、子宝に恵まれずにいましたが、氏真が城主でなくなってから4人も子をもうけていますから「氏真に嫌われていた」という推測も成り立ちます。

テレビではその説を採用していました。

一方で、今川家の格式張った生活が子作りの弊害になっていた・・・と言う見方もできます。

また、従妹という血の近さから子作りを避けていた可能性もあります。

武田の駿河侵攻に北条が強硬に敵対した理由は、早川殿が駿府から掛川へと逃避行をするのに歩行で、裸足で逃げたと知り、父の氏康が烈火のごとく激怒したと言われています。

「武田の猿め、礼を知らぬ」 

 (北条の娘を粗略に扱ったと腹を立てた)

と、執拗に駿府に進駐している武田軍の後方から攻撃を仕掛けます。

富士川ルートからの補給路が寸断されて現地調達が多くなり、駿河での武田の評判は芳しくありませんでしたが、それでも「氏真よりマシ」と言われたようですから、氏真の行政能力が低かったようですね。

早川殿と呼ばれるのは、掛川から小田原に逃げた際、屋敷を与えられたのが早川の庄だったからです。

早川は箱根の山中から流れ下る急流で、両岸に多くの温泉が湧き出ます。

いわゆる箱根温泉街の下流です。

湯本から駅伝の中継地点辺り一帯の地域でしょうか。

ここでの生活も2年あまりで追い出されました。

早川殿の父・氏康が亡くなり、氏政の代になると1571年に武田との同盟が復活して、またも氏真は命の危険にさらされます。

小田原から逃げ出して浜松へ、そして京都に上り、信長に仕えます。早川殿も同行します。

五徳姫の嫁入り

1576年5月 掛川城を手に入れた直後に、信長はかねてから婚約中だった娘の五徳姫を、家康の長男・信康の嫁として岡崎に送り込んできます。

嫁と言っても小学生同士の年齢ですからママゴトのようなものです。

信長の狙いはむしろ偵察団の送り込みで、織田家から姫に付いてきた者たちは忍者、情報要員の役割でもありました。

徳川家から観れば「人質を取った」という反面で、信長から「監視されている」という複雑な立場になります。

これが・・・後々の信康謀叛事件まで尾を引いていきます。

信長としてはすでに天下布武、上洛の思いがありますから東の押さえ、とりわけ武田信玄に対抗する防波堤としての徳川を重視していた事は間違いありません。

信長上洛

信長が足利義昭を奉じて最初の上洛を果たしたのは1568年です。

岐阜の斎藤を倒して美濃を手に入れたのが前年の1567年ですから、わずか一年で京に向かうことになります。

大義名分を立てるために越前の朝倉から転がり込んできた足利義昭を旗頭に立てますが、信長にとって上洛を成し遂げるというのは自分の天下取りのためです。

リンカーン風に言えば「of the信長、by the 信長、for the信長」の天下取りで、足利将軍家の復興などは全く念頭にありません。

義昭は全くの傀儡、大義名分であって、朝廷への伝奏係程度にしか考えていませんでした。

一方の義昭は足利家3代目の義満の時代に戻った気分ですから、比較表のように全く政治理念が異なります。

水と油の喩えの通り、信長とはかみ合いません。

信長のやっていることと、現在の北朝鮮でやっていることと・・・似たところがあります。

信長と義昭・・・全く違う思いを胸に抱きながら、京の都で新政権をスタートさせます。

しかし、全国の有力大名はこの新政権を承認していません。

足利義昭が将軍位にあることは認めても、その代官として信長が指図するなどは「片腹痛い」と無視しています。

むしろ「我こそが将軍義昭の代官である」と自認するものばかりでした。

家康の上洛

信長は自分の力を示すために、将軍義昭に挨拶に来るよう全国の大名に布令を出します。

これに応じたのは同盟者の家康と、近畿の弱小大名たちだけで、東の武田、上杉、北条はもちろんのこと、西の毛利、長宗我部、島津なども知らぬ顔の半兵衛でした。

将軍の後ろで織田信長が糸を引いているのがミエミエですから、織田に頭を下げるなど・・・するはずがありません。

それは信長も承知の上で、「将軍の命令に従わなかった」と諸大名を討伐するための言いがかりを作るための材料に過ぎません。

信長の狙いは北陸の朝倉にありました。

将軍を庇護しながらも上洛軍を起こさなかった腰抜け武者

将軍の命令を無視している不忠者

こんなところが朝倉攻めの言いがかりでしょうか。

理屈と膏薬はどこにでも張り付きます。

今年の大河は城攻めなどの外観はCGを駆使してリアルに描きますが、合戦シーンの描写はお粗末ですね。

それに、やたらと残虐シーンで人を殺します。

戦国の戦いはそれほど人殺しをしません。

負けた方は逃げます。

鬼滅の刃以来でしょうか、やたらと劇画っぽくなりました。

これが無差別殺人の動機にならないことを祈ります。