八重の桜 18 大政奉還

文聞亭笑一

今週のドラマは、八重と尚之助が連れ添って会津周辺の探索に回る場面になります。

会津盆地を取り囲む諸般の情勢について伝えています。その意味で、少し地理のおさらいをしておきましょう。後に会津藩と組んで奥羽列藩同盟を組む福島県の仲間です。

現在の福島県は浜通り(海岸線)、中通り(東北道周辺)、会津の3つの地域に分類されます。それぞれに気候、文化、風土を異にします。

浜通りには4つの藩がありました。北から

中村藩6万石(相馬家)…相馬の野馬追が有名ですね 古くからこの地方の名家です。

磐(いわ)城(き)平藩3万石(安藤家)…幕末に藩主安藤信正は老中として和宮降嫁に尽力しました。

湯長屋藩1,5万石(内藤家)…石炭の発見で、石高の割に内政は豊かでした。

泉藩2万石(本多家)…松平定信の幕政改革に協力し、老中を務めた家柄。

中通りは奥州街道に沿って6つの藩がつながります。南から

棚倉藩10万石(阿部家)…幕末は阿部家ですが、転勤の城です。頻繁に藩主交代。

白河藩10万石…松平定信が有名ですが、幕末は主無き城でした。会津藩預かり。

守山藩2、9万石(松平家)…水戸家の支藩です。

三春藩5万石(秋田家)…秋田家は出羽の名門、名族。三春の滝桜で有名ですね。

二本松藩10万石(丹羽家)…信長の家老・丹羽長秀の末裔、戊辰戦争では日和見。

福島藩3万石(板倉家)…島原の乱で討ち死にした板倉重昌の末裔、商業の町。

そして会津、保科松平家24万石です。

大名の持ち分は合計74,4万石ですが、この間に幕府の天領が無数に散在します。蒲生氏郷の時代は会津92万石です。上杉景勝の時代は、会津120万石でした。これには米沢30万石が含まれますから、福島県の石高は90~95万石程度だったと思われます。

大名の顔ぶれを見てお気づきの通り、徳川の親藩、譜代がほとんどで、外様は少ないです。

69、男の名は木村銃太郎、江戸の江川太郎左衛門の江川砲兵塾に4年いて砲術指南の父・木村勘治を助けるために先ごろ帰藩したばかりだという。二十歳くらいであろうか。

八重と尚之助が訪れた二本松藩には、戊辰戦争での悲しい歴史が残っています。

会津の白虎隊ばかりが有名ですが、二本松藩の木村銃太郎率いる少年隊の肉弾特攻の方が、もっと悲しい歴史物語です。

幕末、二本松の丹羽家は奥州列藩同盟に属して官軍と戦いますが、装備は戦国絵巻のようだったと言います。織田家の筆頭家老を務めた丹羽長秀、越前120万石だった名門だけに、気位ばかり高くて、完全に時代に取り残されていました。

その中にあって、木村銃太郎は兵制改革を唱えますが、二十歳の若僧の声など無視されます。仕方なしに、銃太郎が組織したのが二本松少年隊でした。12歳から17歳までの少年50数名を指揮し、江川塾直伝の洋風装備・調練で官軍と戦います。藩主を筆頭に、米沢へと逃げ出す大人をしり目に、銃を撃ち尽くした後は玉砕、肉弾特攻を敢行します。

丹羽家の菩提寺、曹洞宗大隣寺には木村銃太郎以下15人の少年兵の墓が並んでいます。

出陣に当たっては、それぞれに母親から切腹の作法を教わったようです。息子に死に方を教える母親の気持ち、剣術ではかなわぬからと、必殺の突き一筋で突進する少年たち…

歴史からも忘れ去られては悲しすぎますので、紹介してみました。

70、「外国には目覚ましい物がたんとござった。が、日本が西欧に劣っているとは思いませぬ。技術を学びさえすれば、異国に負けることはないものと思います。要は志です。ただ情けないのはご公儀の役人です。上には媚び、下の者には威張る。会津藩士の私など、下僕扱いだ。国の役に立つ人材が入用な時に、肩書のこだわるあの因循姑息さが、ご公儀を内側から腐らせるものと思います。

先進文明に触れて、打ちひしがれる者と、「何のこれしき」と挑戦する者がいます。

若者ほど可能性を信じますが、最近の若者はそうでもなさそうで、早々に競争環境から離脱してしまう傾向が気になります。

偏差値というのは、進路指導には便利な統計技法ですが、若者の夢を奪う凶器にもなります。よく使われる喩えですが、メスとドスは、どちらも金属製刃物です。片や人助けの道具、もう一方は人殺しの道具です。偏差値も使い方次第…。

要は志です ということですが、志とはいったいどこから湧き上がって、そして、胸の底に定着してくれるものでしょうか。

志の泉は見聞にあると思います。感動、感激が、志の芽をはぐくみます。

感じて動くから感動というんだな。理屈では動かないから理動という言葉はない。

相田みつを師の言葉ですが、理屈を詰め込みすぎて、感動しなくなった若者たちが憐れです。高校入試以前に中学入試、いや、小学校も幼稚園も入試では、感動している暇がありませんね。英才教育も結構ですが、人間教育が先決でしょう。酸欠になりますよ。

志の芽を、しっかりと根付かせる水と肥料は、親と教師の褒め言葉ですね。

可愛くば 5つ教えて3つ褒め 2つ叱ってよき人とせよ(二宮尊徳)

このバランスを逆転させ、叱ってばかりいるのが3過ママ(過保護、過管理、過干渉)です。命令と叱責で育てるのは、遅くても5歳までですよ。

71、1867年秋から冬にかけて、「ええじゃないか」と歌いながら、仮装して踊りまくる「おかげ騒動」が江戸から四国までの広範囲で流行し始めていた。「ええじゃないか」を踊ると、天から慶事の前触れとして伊勢神宮のお札や、諸国の神々のお札が降ってくるといわれている。

「ええじゃないか騒動」なるものが起こったのは名古屋近辺が発祥です。天から伊勢神宮のお札が降ってくるという珍現象が発端です。8月に始まったこの騒ぎ、9月には東の江戸、横浜に広がり、西では阿波、讃岐、もちろん京、大阪で大騒ぎになります。その歌詞を紹介しておきましょう。初めのころは

「ええじゃないか、ええじゃないか、おめこに紙貼れ、はげたらまた貼れ、破れりゃまた貼れ、なんでもえじゃないか、おかげでめでたし、えじゃないか」

9月を過ぎると歌詞が代わってきます

「長州さんのお上り、ええじゃないか、長と薩摩とええじゃないか、一緒になってえじゃないか」

自然現象であるはずがありませんから、仕掛人がいます。薩摩藩士・益満久之助であろうといわれていますが、定かな証拠はありません。ともかく、この珍騒動は薩摩、長州が裏工作をするのに大いに役立ちました。京も大阪も通りは踊り狂う人々であふれかえっていますから、監視の目ははぐらかされて届きません。西郷、大久保、岩倉具視…この3人が密議と、討幕準備を進めるには格好のカモフラージュでした。

現代でいえば情報操作ですね。これを思いつき、そして1か月もしないうちに全国展開してしまった仕掛け人は見事というほかありません。テレビもラジオもありませんからね。この騒ぎ、お札という印刷物を大量に必要としますから、活版印刷機を持っていた薩摩が仕掛け人であることは間違いなさそうです。

しかもこの騒動、王政復古の号令が出たとたんに、ぴたりと止みました。

72、「昨日、土佐の後藤象二郎なる者が、老中のもとに容堂の建白書を届けてきた。政権を返上せよと、進言してまいった。二百六十年余り、幕府が執り行ってきた政を、朝廷にお返し申し上げよというのじゃ。この策を受けようと思う。
……朝廷に大政を奉還する!」

大政奉還の仕掛け人は勝海舟です。勝が、龍馬を動かし、龍馬が山内容堂と後藤象二郎を動かします。「徳川を含めた共和政治」の構想を持つ海舟は、内戦の非を唱えます。それは、幕府が小栗上野介を中心に、すでに北海道を担保にしたフランスとの借款契約と軍事同盟を結ぼうとしていたことを知っていたからで、薩長を支援する英国と仏国の代理戦争になることを最も危惧していたのです。

謹慎中でありながらも、海舟は慶喜に建白書を送り、容堂にも働き掛け、大政奉還という奥の手を提案します。慶喜がこれに乗ったのは、彼の治世の中で唯一の功績です。

大政奉還、つまり、内閣総辞職によって、フランスとの契約は直前に白紙還元されました。その点、後世の似た者・鳩ポッポよりは偉いか?(笑)

会津、桑名にとっては青天の霹靂です。何のために苦労してきたのか…途方に暮れたでしょうね。もはや消えゆく幕府と心中するしか選択肢はなくなっています。