水の如く 17 信長流と秀吉流

文聞亭笑一

上月城を囲んで毛利、宇喜多連合軍5万と、播磨勢の一部を加えた織田軍5万が対峙しています。この対戦は前号で述べたとおり、囲碁・将棋でいう百日手というのか、互いに身動きのできない持久戦です。

困ったのは上月城に籠城している尼子勢700人で、彼らは補給路を断たれ、飢えが迫ります。いかに山中鹿之助が勇将であっても、飢えには勝てません。毛利はそれを待っているのですが、こちらも悩みを抱えていました。友軍の宇喜多直家当人が言を左右にして出陣してこないのです。「上月城を取り返してくれ」と言ってきたのは宇喜多直家なのですが、その当人が岡山城から一歩も出ません。こういう味方を抱えるというのは不安ですよね。官兵衛にとっても、御着城から出陣してこない小寺藤兵衛政職が同じ困り者です。

65、信長の思考法は徹頭徹尾、利害計算で出来上がっており、計算の実行については苛烈なばかりで、情け容赦もない。計算の最終目的は天下布武にあり、彼はどういう計算においてもこの主題を外したことがなかった。天下に武を布くという主題意識において信長ほど明快であった人物は他にいない。この意識からすれば、上月城などは捨てるべきであり、その断において一片の感傷もない。

この文章、読めば読むほどに現代経営学に似通っていると思いませんか。

信長という人は、現代に現れたら名経営者と言われそうですよ。徹頭徹尾「理」による判断をします。一片の「情」も交えません。そういう冷徹さがなければ、経営はできぬと教わりましたが、リストラなどというのは、将にそれでないとできませんね。

私が習った当時は、マッキンゼー、ボストンなどの経営コンサルタントが肩で風を切って歩いていた時代ですが、「目標を明確にせよ」「主題を外すな」「徹底的に分析し、自己の長所を生かし、敵の欠点を突け」でしたよね。

司馬遼がそのことを知って書いたのか、それとも信長のやり方が実際にそうだったのかわかりませんが、信長という人は、当時の日本人には稀な理系の人だったのでしょう。

理系の基本は、感情を入れず、先入観を排除して、「あるがままに見る」ことと、数字にできる物はすべて数字に置き換え計算可能にすることですよね。それを、400年以上前にやってしまっていたとしたら…凄いことです。

もしかすると…漫画にあるドラえもんの「どこでもドア」で、タイムスリップした未来人が現れたのか? などと勘繰ってみたりします(笑)

まぁ、そんなことはないでしょうから、当時の人から見たら鬼に見えたでしょうね。

ただ、3000年前の軍書、「孫子」も全く同じ思想で成り立っています。信長だけが特異な存在であるとは言えません。目標にもよりますが「目標にまっしぐら」に徹したら、信長的になりますね。「政権奪取」だけに的を絞って、世の中を大混乱させた政治家がいましたが、あの人も信長的ではあります。

おっと、失礼しました。まだ過去形で語ってはいけません。現役の党首でした。

66、6月26日、秀吉は陣を払った。滝川と明智の舞台を殿(しんがり)とし、秀吉と荒木の部隊がまず山を下った。
この後、織田の大軍による播州鎮定戦というのは、もはや戦争という既成の印象から外れるものだった。織田家のおびただしい軍兵が洪水のように播州平野に満ち満ちて、敵という存在は点でしかない。

秀吉は不承不承山を下ります。信長から軍監まで送り込まれましたから、小細工はできません。こういうところが信長的なのです。

降伏勧告に送り込んだ亀井新十郎は尼子牢人の一人です。彼だけは尼子勝久に従って籠城せず、秀吉の旗本になっていました。後に津和野藩4万石の大名になり、明治まで生き残った家系です。この家系は世渡り上手のようで、現代の政治にも顔を出しますよね。

ともかく、上月城では尼子勝久の切腹を条件に、山中鹿之助以下は降伏を許されるという形で毛利の軍門に下りました。当時としてはやや甘めの降伏条件です。

毛利としては、織田勢の総数を5万ではなく、10万と見積もっていましたから、軍と軍が至近距離で対峙するのは避けたかったのでしょう。毛利が得意とするのは戦闘ではなく外交でしたから、一触即発の環境には居たくなかったのでしょう。

その割に、毛利軍の撤退は遅れます。そうさせたのは宇喜多の動きです。更には備中・松山城の謀反です。いずれも官兵衛、半兵衛の仕掛けた調略ですが、利にさとい者を報酬で誘っています。備中松山城主・清水宗治は謀反人誅罰のために、戦場から離脱するほどでした。宇喜多は…冷静に織田勢の動員力を観察していました。

67、信長は、播州を含めて中国筋で織田に反抗する大小名はことごとく殺して、その城地を取り上げるという方針を示していたが、ただ、志方の櫛橋左京之亮ばかりは、秀吉を通じて官兵衛があらかじめ命乞いしていたため、降伏すればこれを許すことにしていた。志方城もよく戦った。20日ほど戦って降伏したが、左京之亮は命だけは許された。後、官兵衛はこの一族を家臣団に組み入れ、厚く遇している。

播磨灘物語はこう記述します。が、今回のNHKは左京之亮が切腹したことにしています。

どちらが正しいのか? 歴史家でない文聞亭は「どうでもよい事」と切り捨てますが、櫛橋一族が官兵衛の下で生き延びたことは間違いありません。ただ、後に黒田24将と讃えられた黒田の重臣の中に櫛橋の名はありません。当時、「死ぬ」と「出家する」は同義語ですから、仏門に入って俗世から消えたのだろうと思いますね。

これとは逆に、神吉城に対する処分は冷徹でした。

神吉城はウンカのごとき大軍に攻められても20日間ほど耐えたのですが、城主の叔父が荒木村重に誘われて寝返り、城主を殺害して降伏します。

ところが、軍司令の織田信忠は父の命令を楯に、裏切った叔父やその一味を皆殺しにしてしまいます。これが…荒木村重を戦慄させます。本願寺との和睦失敗、神吉城での命令違反、二つ失策を重ね、崖っぷちに立ったと焦りが出ます。

これは、明智光秀にも恐怖感を与えます。丹波の波多野一族との戦いで、調略による無血開城を目論んで、その目処が立っていたにもかかわらず、信忠の処置を目の当たりにして不安が膨らみます。信長の命令が建前でなく本音であることに恐れを抱きます。

後に、波多野攻略では母を人質にして、波多野三兄弟の降伏を達成しますが、信長によって波多野は斬られてしまいます。

荒木村重と明智光秀の謀反…伏線はどうやら、この播磨攻めから引かれていたようでもあります。信頼関係…この訳の分からない、つかみどころのないものが世の中を動かしているようでもあります。少なくとも・・・信長流、現代経営学的発想では信頼関係は生まれないでしょう。生まれないならまだ良いとして、信頼を断ち切るでしょうね。

欧米かぶれの経営学を卒業して、日本的経営を見直す時期だと思いますよ。

68、秀吉と官兵衛、および竹中半兵衛がやったこの攻城法は、あるいは独創的なものだったといわねばならない。
三木城の周りに輪を描くようにして野戦築城をやったのである。その延長が4里以上に及んだというから、三木城そのものよりも大きな土木工事だった。

織田信忠が総司令官で実行した播磨平定作戦に、秀吉は参加していません。この辺りが秀吉の賢い所で、彼は播磨の北、日本海側の但馬地方の平定に軍を動かしています。この地方は谷あいの小集落ばかりで、秀吉軍に対抗できる勢力はありません。瞬く間に平定してしまいます。主戦場、本業は他人にやらせ、おいしいところをつまみ食いしてしまう…

これも竹中半兵衛の知恵だったのでしょうね。

三木城の包囲網、これは司馬遼の言う通り大土木工事です。戦争をしていません。

三木城を遠巻きにして柵を結い、砦を配し、物見櫓を建て、堀を穿(うが)ちます。それというのも、兵員増強のために長浜に帰還させた石田三成から「兵員は枯渇しているが、金なら作れる」という報告があったからです。「ならば兵の代わりに地元住民を人夫として雇おう」と発想したのは…多分…官兵衛でしょうね。播磨の民衆は大喜びです。穴掘りに行くだけで銭がもらえます。播磨だけでなく、但馬からも、備前からも人夫が集まります。一種の建設バブルです。これで、播磨における秀吉人気は動かしがたいほど高まりました。

あとは…、三木城の自滅を待つだけです。高砂城などの沿岸部の補給路を断ち、別所の内部分裂を待つだけです。この戦略、戦法はその後の秀吉が得意とする方策になりますね。鳥取城、備中高松、そして小田原と…。原典は三木城の別所攻めに始まります。