乱に咲く花 21 晋作と玄瑞と慶喜

文聞亭笑一

ここ2回の大河ドラマの筋書きは、維新史を猛スピードで駆け抜けています。それまでの数回が、松陰を中心にのんびりとしていましたから緩急の差の凄いこと…。100km/h程度の緩いカーブから150kmを超す剛速球を投げ込まれたバッター同様にきりきり舞いです。(笑)

時間軸を整理するために、松陰の処刑から蛤御門の変までの5年間を年表にしてみました。

ドラマを見るうえでのご参考になれば幸いです。

年         出来事 

1859     10月 吉田松陰が処刑される

1860      1月 咸臨丸がアメリカに向けて出港 条約批准

          3月 桜田門外の変 大老・井伊直弼、水戸攘夷派浪士に暗殺される

          8月 前水戸藩主・徳川斉昭死去

         12月   米公使館通訳・ヒュースケン、薩摩浪士に暗殺される。

1861      5月   長州藩長井雅楽、「航海遠略策」を幕府、朝廷に献策

                薩摩が公武合体論を唱え、幕府もこれに合意

1862     1月   坂下門外の変、老中・安藤対馬守が襲われる

         2月  和宮降嫁 将軍・家茂と婚儀 公武合体体制スタート

         4月  島津久光が挙兵上洛。幕政改革案を朝廷に提出

               薩摩攘夷派を寺田屋事件で粛清

         5月  東禅寺事件 松本藩士・伊藤軍兵衛が英国公使館襲撃 英兵2名殺害

         6月 島津久光が公家・柳原重徳を護衛して江戸下向、一ツ橋慶喜の将軍

            後見職と、松平春嶽の政治総裁職就任を迫る。

         7月 一ツ橋慶喜、松平春嶽、それぞれの役に就任

         8月 生麦事件 薩摩藩の行列を乱した英国人一名斬殺,二名重傷

        閏8月 松平容保、京都守護職に就任

         12月 高杉晋作、井上門多らが品川・御殿山の英公使館を焼き討ち

1863     2月 長井雅楽、攘夷派に責められ切腹

          3月 将軍家茂上洛

         4月 幕府、5月10日を攘夷決行日と朝廷に約束

         攘夷派浪士が京でテロ行為を激化させる。「人斬り●●」

         5月 長州藩、下関通過の外国船を砲撃、諸国艦隊に攻められ敗戦

         6月 高杉晋作が奇兵隊を編成

         7月 薩英戦争始まる(11月和議)

         8月 8・18の政変 薩会連合による長州の京都追い出し

        12月  一ツ橋慶喜主導による参与会議発足

1864     3月 参与会議解体

          6月 池田屋事件 新選組による攘夷派殺害

          7月 蛤御門の変 久坂玄瑞・戦死

歴史の流れには大きく影響しませんが、添付している「攘夷でござる」の主人公・伊藤軍兵衛の起こした事件の位置づけを見ていただきたいと、東禅寺事件の部分を強調文字にしました。 英国兵士2人を斬り殺していますが、その三月後に起きた生麦事件との兼ね合いで、政治問題というより、単純なテロ事件として処理されています。

松陰は先年、井伊大老の直接裁決で処刑された犯罪者である。その改葬を白昼、将軍のひざ元で執行するというのは、穏やかな話ではない。ただ、井伊直弼が桜田門外で斃されてから政情が大いに変わり、幕府の態度が――朝廷に対しても、攘夷世論に対しても――軟化した。その時流に乗った朝廷は、幕府に申し入れて、「安政の大獄で処罰された者たちに大赦を行え」と、勅使をもって沙汰し、幕府に承知させた。

松陰の大赦が決まるや否や、高杉晋作をリーダにする長州藩江戸屋敷の面々が動きだします。小塚原に捨て置かれていた松陰の遺体を掘り出し、世田谷(松陰神社)の長州藩用地に改葬しようということで、それ自体は適法です。が、晋作はそれを政治宣伝として使いました。

「長州藩は幕法を無視する」と公衆の面前で宣伝します。明らかな敵対行動で、宣戦布告のようなものです。御成橋事件とも呼ばれますが、将軍しか渡ってはいけない橋を、白昼堂々騎馬のまま渡り、さらに松陰の遺骸の甕を渡らせます。将軍の権威への明らかな反逆です。

が、これに対して幕府は現場の役人が阻止しようと試みただけで、処罰できませんでした。

軟化した・・・というより、腰が引けていた、というべきでしょうね。

「将軍を江戸から引きずり出して京へ上らせよう」と言いだしたのは攘夷志士の誰かわからぬが、それを長州藩に持ち込んだ。長州藩は過激分子の卸問屋の感を呈しており、すぐに久坂玄瑞が賛同し、周布政之助を説いて藩の公式意見にした。さらに宮廷の過激公卿に工作し、あれやこれやするうちに、ついに実現してしまったのである。
幕府は言われるまま、消極的に朝廷の言いなりになったのではない。<すべては長州の陰謀>と裏を見抜き、ならばこれを機会に政府警察軍として会津藩千人を京に常駐させ、さらに江戸から送り込んだ浪士結社である新選組を京都守護職の配下に加えることにした。
長州が提案した「航海遠略策」が朝廷、幕府とも了承され、和宮の降嫁もあって朝幕間は小康状態にありました。これでは攘夷に向けての動きが鈍くなります。久坂が戦略を担当する攘夷過激派にとって望むことではありません。

この案を立案し、持ち込んだのは誰か?肥後浪士・宮部鼎三、土佐浪士・武市半平太などの名が上がりますが、どうやら筑後の神官・真木和泉ではないかと思われます。この辺りから蛤御門の時期まで、久坂と真木は行動を共にしています。久坂や桂小五郎が朝廷工作をする上での軍師のような役割を果たしていたのが真木和泉です。

幕府側も、大赦で一ツ橋慶喜が将軍後見職として復帰しています。この人も稀代の策略家ですから「長州がこう来るのなら、俺はこう行く」と策と策が火花を散らします。

浪士を取り締まるには浪士に限る…いよいよ新撰組が登場します

討幕とは、250年の長きにわたって続いてきた秩序を転覆させて、全く違ったものをうちたてるのである。果たしてそれが可能なるかとなれば、志士たちにとってこれほど心細いことはない。その点で晋作は割り切っている。
「長州藩を潰してでも、この幕府体制を壊してしまえば、おのずと次なる秩序が出来上がってくる」というもので長州を藩ごと火中に投げ込もうとしている。

久坂、桂などが京の朝廷を舞台に政治的駆け引きを重視しているのに対して、晋作は批判的です。政治で勝っても、幕藩体制は崩れない…と言うのが晋作の考え方で、実力行使あるのみと、次々に事件を引き起こします。

まず手始めに、横浜の外国公使館の襲撃を計画します。が、これは久坂が同志を募るために・武市半平太に漏らしたのが漏れ出して、武市一味の誰かから山内容堂へ、そこから慶喜へと情報が洩れ、幕府の厳重な警戒網で未遂に終わります。

次に起こしたのが品川・御殿山に建設中だった英国公使館焼き討ち事件です。前回に懲りて、久坂には話さず、少人数で夜間に実行してしまいます。後に鹿鳴館の主などと呼ばれ西洋かぶれの代表のように言われる井上門多(馨・外務大臣)などが主役の一人です。まぁ、安保闘争で赤旗を振り回した者が、後に経営者として活躍したのですから、単純に善悪の問題とは言えないかもしれません。

ともかく、東禅寺事件、生麦事件、公使館焼き討ちと相次いで幕府の外国方は賠償交渉に追い回されます。高杉の狙い通りの展開になってきています。

京都で長州藩は熱狂的な攘夷世論を掻き立て、過激派公卿を抱き込んで勅命を自由にし、幕府に対し、「攘夷をせよ。攘夷の日限を決めよ」と迫らせた。
勅旨、勅命であるからこれに応えなければ朝敵にされる。幕府は窮して5月10日と答えた。

久坂玄瑞が構想を考え、それに真木和泉が策略を盛り込んで脚本を書き、演出の桂小五郎が、主役の三条実美、姉小路公知などを使って勅命、勅許などを乱発させます。京都映画村・・・と言った雰囲気になっていたのが京都御所の界隈でした。

石清水八幡行幸というのが彼ら映画村の考えだしたシナリオでしたが、これは慶喜の方が一枚上手で、みごとに相手の裏をかき将軍も、後見職の自分も病気を理由にドタキャンしてしまいます。石清水八幡宮で天皇が節刀を与えるという儀式をしてしまえば、攘夷実行の命令を受託したことになるからです。

しかし、久坂などは次々に二の矢、三の矢を繰り出して攘夷を求めます。

この辺りになると「久坂vs慶喜」の囲碁か将棋の対局を見るようですが、慶喜が打った一手が「5月10日攘夷決行」の空手形でした。慶喜に攘夷戦争などする気は全くありません。約束したのが4月20日ですから、戦争準備などできるはずがありません。

これに引っかかって、長州は下関砲撃事件を始めます。連戦、連敗です。

政界を引退し、坊主になって国許で謹慎していた高杉晋作を引っ張り出して、攘夷戦争の一切を任せるしか手がなくなりました。