次郎坊伝17 戦国難民

文聞亭笑一

ここのところ・・・ドラマは井伊谷の狭い範囲の話に終始しています。

次郎・直虎と小野但馬守政次との確執、徳政令を巡る村人たちとの信頼関係の修復など、現代人の感覚で物語が展開されますが、戦国期は人の移動が激しく、より安定した領主を求めて次男坊、三男坊は経済の中心地に集まります。政権交代によって居住地にいられなくなった難民……と呼べる人たちが大量に発生し、全国規模で流浪しました。信長の五軍団長と呼ばれたうちの、明智光秀、滝川一益、木下藤吉郎の3人は、その難民の代表選手のようなものです。

流浪難民が、いつの間にか頭角を現し、政権中枢に座る…それが戦国という時代です

ヨーロッパが難民問題で荒れています。中東からの難民には二通りの種族がいます。

一つは、旧政権と親しい関係にあって、新政権から粛清される立場の亡命者です。

彼らは政治的利用価値がありますから、亡命先に受け入れられて優遇されます。

日本の戦国時代にあっては明智光秀などがその代表で、美濃の旧領主・土岐家の一党ですから、斎藤道三が国盗り物語をした後は逃げるしかありません。政治亡命ですね。こういう人たちは教養が高く、アルバイト先が見つけやすいのでしょう。また、政治的利用価値が高いですから取引の商品にされることもありますね。足利15代将軍・義昭など、その典型です。

三河で一向一揆を起し、家康に駆逐された本多正信にしても、ほとぼりの冷めるまでは全国を放浪し、あちこちの大名に就職活動をして歩いています。これらの人々は家柄とか、能力とか、売り物がありますから、それなりの生活レベルは確保できます。

二つ目は、地元、親元にいても芽が出ない者たちです。

財産もなく、能力もなく、従来からの社会が失われて、食っていけなくなった者たちです。

彼らは豊かな土地に逃げ出して、お涙ちょうだい…、お恵み頂戴…と寄生します。シリア難民を中心とする中東難民がヨーロッパで嫌われるのは、圧倒的にこのケースで、ヨーロッパ社会の包容力の限界を越えてしまっています。EU離脱、難民受け入れ拒否の動きが広がるのは「人権尊重」の建前が限界に達し、豊かさを侵害されるレベルになったからでしょう。ましてや、ISなどという狂信組織に洗脳された者たちが混入していたら…「人権」どころではありません。

マスコミに誘導された世間では、難民は気の毒だ…という情の世界が優先しますが、乞食社会を支えられるほど豊かな国などありません。トランプさんではありませんが「強制送還」というのも社会を維持する便法の一つです。

戦国時代の乞食難民、その代表が尾張中村の百姓の倅・木下藤吉郎で、家を出て針売りになったり、今川に仕えてみたりと放浪します。要するに…稼ぎのない連中が職を求めて放浪します。全国的にこういう人たちが大量発生したのが戦国時代です。

綿の栽培、木綿の普及

直虎が瀬戸方久の提案を受けて綿の栽培を始めた・・・と云う史実はありませんが、堺の商人たちが「木綿」という新技術を海外から導入し、それが全国に広がっていったのはこの時期です。

日本に木綿が入ってきた最初は平安初期の800年に三河の国に漂着したインド人からです。西尾市に天竹(天竺)神社という社がありますが、それがルーツだと言われます。その後は細々と栽培が続けられましたが、連作すると土地が痩せてしまうので長続きはしなかったようですね。

栽培が普及したのは江戸時代に入ってからで、魚肥が大量に供給されるようになってからだと言います。イワシ、ニシンなどの大量捕獲など漁業の技術革新があってから、ようやく普及したようです。これも・・・種が残っていた三河から始まったと言いますから、三河からほど近い井伊谷で木綿づくりを始めたというのは、ありうる話です。

家康と瀬名

ここのところ家康の嫁になった瀬名さんが登場しません。

三河一向一揆に立ち向かう家康にとって、妻の瀬名さんは実に厄介な存在でした。

竹千代(信康)亀姫と二人の子をなしていますから、閨房では愛しい妻であったと思われますが、ともかく勝ち気で、今川的価値観を後生大事にしますから、部下たちと問題を起します。

三河を田舎、駿河を都会と定義し「都会が正しい」と言い張って妥協しないのですから手に負えません。以前にも書きましたが「築山殿」と呼ばれたのは、京風の庭にこだわって三河の財政のことなど一顧すらしなかったことによります。そのくせ小銭のことにはうるさく、家康の浪費を咎めたりします。清く正しく美しく、文化を重んじ、且つ家計簿をマメに付ける現代の主婦…そういう人だったようですね。

ただ…これは戦国という混乱期には受け入れられません。大久保、本多、石川、酒井といった三河の重臣たちから総スカンを食います。

思いあぐねた家康は生母のお大の方に相談しますが、瀬名はお大の言うことを聞きません。

嫁姑戦争みたいな雰囲気になります。火に油を注いだ感じになりました。

瀬名に嫌気がさしたのか、それとも元々好色だったのか、家康の女漁りが始まります。

そうなると夫婦関係の修復は難しいですねぇ。この中で出来たのが後の結城秀康(次男)です。

信長の上洛

直虎は綿作りに精を出していますが、歴史の歯車は高速回転を始めています。

美濃の斎藤を倒し岐阜を手に入れた信長は、流れ者から部下に取りたてた明智光秀、細川幽斎を使って、流浪の将軍ご落胤・足利義明を手に入れます。天下取りへの傀儡ですね。この義昭を前面に押し立てて京に登ります。

「将軍様のお通りだ」となれば北近江の浅井、南近江の六角も手出ししません。粛々と近江路を通って上洛を果たし、天皇に拝謁して足利義明を15代将軍の座に付けます。この辺りの政治力は見事なものです。しかも適材適所の人事も見事でした。

格式、礼儀作法を重んじる公家相手には明智、細川の教養派を当て商売、金策は堺の商人と感覚の近い木下藤吉郎に任せ鉄砲などの技術移転は滝川一益に任せます。

明智、細川、秀吉、滝川・・・全部途中入社組です。更に、千利休まで顧問格で採用します。

信長の快進撃というのは、つまるところ人材活用の妙でしょうね。信長と言えば「で、あるか」としか発言しなかったような気難しいイメージですが、それは信長公記を書かせた秀吉が作った虚像ではないかと思います。信長は多弁な男ではなかったか、冗談こそ言わぬまでも、交渉事や相手の説得には熱弁を振るったのではないかと思います。

さもないと…あれだけ多能、多才の人物たちが信長のもとに集まっては来ないでしょう。

秀吉が「人たらしの名人」になるために、信長を寡黙な人に作り上げた気がします。