明智光秀 第40回 ベンチャー信長

文聞亭笑一

めでたさも 中くらいなり おらが春 (一茶)

江戸での、俳諧の師匠として活躍、大成する夢が叶わず、信越国境の柏原にUターンしてきた小林一茶の正月の句です。

俳句も短歌も、初心者は「本句取り」「本歌取り」と言って、著名な句の替え歌を作って名作の持つリズム感と言うか、雅さを味わう技法があります。

現代は著作権云々でやかましいですが、江戸時代以前の名作の真似をしても咎められることはないでしょう。

コロナ禍・・・何とも鬱陶しい課題です。

めでたさも 感じられずに コロナの春 百薬の長 ちびりちびりと

急成長企業・・・織田信長

織田信長が父・信秀の死で家督を継ぎ、尾張の「弾正忠」の家を継いだのが1551年です。

父の信秀が酒池肉林に端溺し、突然死してしまいます。信長が継いだ家は、家柄的にいえば守護の斯波家(武衛家)の守護代・織田大和守家の三奉行の一つでしたが、祖父、父が勢力を伸ばし、尾張の半国近く(30万石)を支配していました。

小大名・・・と思うのが普通ですが、武田信玄が支配する甲斐の国は20万石、今川義元の駿河も30万石に足りません。

斉藤道三が乗っ取って、不安定な支配をしていた美濃も50万石規模です。米の収量の話ですが、これが軍事力のモノサシなのです。

今回の物語は松永久秀の3度目の反抗が中心です。これは1577年の出来事ですから、信長が家督を継いでから25年後の出来事です。

この間に、尾張半国だった織田弾正忠家が、美濃を併合し、近江も制圧し、畿内を席巻して300万石近い大大名に成長しました。

大名の石高と言うのは、企業経営の「売上高」と言えるかもしれません。石高と動員兵力は正比例します。

更に、信長は伝統的価値観や因習、経済システムを破壊します。これまでの常識が通用しない変革を強引に進めていきます。

楽市楽座・・・寺社の経済基盤であった市や座の特権を召し上げ、自らの収入源にします。

市や座の上納金は、いわば所得税のようなものですね。寺社が20%取っていたものを5%、10%にしますから商工業者は喜びます。

信長の進出を歓迎します。商工業者を味方に付けて、信長の情報網は全国に拡大します。戦国も現代も・・・情報量とその活用度で企業の実力が決まります。専門の間者、忍びの者など使わなくても情報が集まります。

急成長しますから、社員は寄せ集め部隊になります。

吉法師時代からの遊び仲間、子分がいます・・・池田恒興、前田利家、木下藤吉郎など

少年時代以来の家臣がいます・・・平手政秀親子、佐久間信盛、森成可、滝川一益など

尾張を統一した時の家臣・・・柴田勝家、林佐渡、丹羽長秀、池尻秀隆など

美濃を併合した時の家臣団がいます・・・稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全

近江から近畿へと勢力を拡大し、松永久秀、細川藤孝、明智光秀、荒木村重などが加わります。

寄せ集め部隊・・・それは仕方ありません。急成長する組織では当然のことで、企業規模に匹敵する人材を集め、適材適所に配置していかなくてはなりません。その点で信長と言う経営者は実に見事な人事政策をとっていたと思います。

濃尾系と近畿系・・・この確執を起こさない融和材としての光秀 人事部長的に使いました。

成功体験と非常識によるリーダシップ

信長の組織運営を見ると、斬新な発想と、それを推し進めるための強引さが目立ちます。

後世に日本帝国海軍の山本五十六は

「して見せて 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ」

と、率先垂範と教育の重要性を語りましたが、信長は「してみせて」の率先垂範をするだけで言って聞かせることなどは皆無でした。

しかし、抜擢して「させてみて」結果が良ければ昇進させていました。光秀、秀吉、滝川一益などがその典型です。

一方で、工夫のないものには厳罰主義でしたね。下っ端の足軽レベルは良いとして、中以上の幹部候補生にとっては信長のやり方に付いていくだけでも大変だったでしょうね。

信長映画では、信長は報告させておいてからかの有名なセリフ「・・・であるか」を発します。これをどう読み取るか、信長の真意を把握できるかで、自分の人生が決まってしまいます。

嫌ですねぇ、こういう上司とは付き合いたくありませんね(笑)

信長の特質である斬新な発想、改革的施策と言うのは抵抗が多い施策です。

仏教界に対する態度は将に革新的で「政治権力は仏門内に入れない」と言う平安以来の慣習を叩き壊してしまいます。

比叡山、本願寺を仏門と認めず、私企業として糾弾してしまいます。高野山も粛清の対象でしたし、甲斐の恵林寺では抵抗した快川禅師を焼き殺してしまっています。

今回のドラマの作者は本能寺の変の動機をどう想定するのかわかりませんが、光秀にとっては師と仰ぐ快川禅師を殺されたことは大きな衝撃であり、動機の一つかもしれません。

信長政権に対する反対勢力が頼りにしていたのは朝廷、つまり天皇で、天皇と公家の世界は保守本流、信長改革への抵抗の最後の砦です。

あらゆる手立てを弄して抵抗してきますが、その目標は信長軍団の内部崩壊に向けられます。

松永久秀や荒木村重の反乱

松永久秀が反旗を翻した直接の原因、動機は大和(奈良)の守護を筒井順慶に任命した信長の人事に腹を立てたことですが、もう一つが東西勢力の動向です。

信長軍が本願寺攻めに苦戦する中で、越後の龍と言われた上杉謙信がいよいよ上洛の兵を動かします。

長年のライバルであった信玄が亡くなり、後継者の勝頼は駿河、遠江で徳川家康と対峙しています。関東の北条も3代目氏康から4代目氏政への政権移行期でゴタゴタしています。

謙信は越中から能登、加賀を制圧し、手取川で織田軍の柴田勝家(北陸方面軍)と戦います。

手取川の戦・・・この戦は上杉軍の圧倒的勝利で、織田の勢力圏であった越前を席巻されてしまいそうなところでしたが、なぜか(?)上杉軍は越後に引き揚げてしまいます。

多分、謙信に脳溢血の予兆が出たのでしょう。信玄といい、謙信といい、両雄共に上洛の途中で発病するとは・・・信長の運が良すぎますねぇ。

「あまりにも出来過ぎている」と織田方の謀殺説を唱える人もいますが、信玄の死因は肺結核、謙信の死因は脳溢血とほぼ確定しています。

両雄共に兵農分離ができていないため、農閑期の冬場に軍旅をしたことで体力を消耗した可能性があります。

もう一つ、松永久秀は毛利水軍の制海権に期待していました。織田方の九鬼水軍は毛利に全く歯が立ちません。

「本願寺は落ちない、織田は疲労する。そこへ上杉がやってくる。織田は本拠の岐阜に引き、近江で決戦する。畿内は空になる」これが久秀の読みだったでしょう。