紫が光る 第17回 疫病蔓延
作 文聞亭笑一
先週は古代日本を何度も襲った「疫病蔓延」の場面でした。
そもそも父祖の地・ヤマトの平城宮を捨てて平安京に移った原因も疫病蔓延です。
古代の医学、科学技術ではいかんともしがたく、逃げ出す・・・転地するしか対策がなかったのでしょう。
疫病・・・伝染病、それも致死率の高いものと言えば、コレラ、赤痢、チフス、天然痘等ですが、奈良時代にその病菌を持ち込んだのは遣隋使、遣唐使などの留学生や僧侶達、それに中国貿易に携わる商人達です。
多くの場合、流行は九州から始まり、物や文化と共に瀬戸内を渡って近畿へ、京へと伝染してきます。
今回の疫病も「太宰府に発した」と記事があります。
はしか(麻疹)?
先週の悲田院での患者達の症状、まひろの症状などから推察するに脚本家が仮説として取り上げた病気は呼吸器系の伝染病ですね。
はしか(麻疹)が想定されます。
患者の皆さんが咳き込んでいました。
高熱を発します。麻疹は免疫がないと一気に高熱を発して肺から脳をやられます。
当然のことながらこの時代の人たちはワクチンを打っていませんし、発病した後に抗生物質もありません。
アスピリン系の解熱剤さえありません。
水で冷やして、その人の持つ自然治癒力に頼るしかなかったのです。
麻疹(はしか)だとしたら・・・納得がいかないのは潜伏期間がなく、すぐに発病してしまったことです。
麻疹なら10日前後の潜伏期間があって発病します。
どうやら作者は麻疹と新型コロナを掛け合わせた新伝染病を創出したようですね(笑)。
まぁ仕方ありません。
コレラ、チフス、赤痢などの消化器系伝染病では、患者の周辺が汚くなって、病人の姿を映像に出来ません。
道長が発病したまひろを連れ帰って看病する・・・こういう場面を創作しようとすれば、「麻疹+新コロ」のような疫病を作るしかないでしょう。
実際はどうだったのか? それを知る手がかり、記録はないようですね。
詳細な日記を書いた藤原実資の「小右記」にも、症状の記録まではないようです。
香炉峰の雪
市中の疫病蔓延をよそに中宮・定子と清少納言の宮廷サロンの様子も映像として流れました。
天皇以下の若い公卿達が雪と戯れる場面でしたが、あれは・・・枕草子にある有名な場面だったのですね。枕草子と言えば「春は曙・・・」で始まる最初の場面しか「記憶にございません」という私などは、枕草子の一節など思いも付きませんでしたし、ましてや「その背景に白楽天の漢詩がある」など夢のまた夢・・・埒外にいます。
なんとかの後知恵で、高校生の時代の古文の時間に戻り、ちょっと勉強してみました。
枕草子の一節
雪のいと高こう降りたるを、例ならず御格子をかゐりて。
炭櫃に火をおこして、物語などして集まりさぶらふに、「少納言よ 香炉峰の雪はいかがなるらむ」と仰せらるるば、御格子を上げさせて、御簾を高く上げたればわらわせたまう。
将に、この場面を映像化していたのが先週でした。
ナレーションはありませんし、知る人ぞ知ると言う世界ですね。
凡人は「宮廷のボンボン達の雪遊びか」程度と見過ごします。
そもそも「香炉峰の雪」の意味がわかりません。
なんじゃ そりゃ ???
原典は白楽天の漢詩でした。
その一節に
香炉峰の雪は簾をかかげて看る
があり、それを知っていた定子と清少納言が、天皇の前でその情景を演じたというものです。
清少納言は自慢げに「枕草子」に書きましたが、後にライバルとなったまひろ・紫式部には
「目立ちすぎ、知識のひけらかし(紫式部日記)」と面白くなく写ったのでしょう。
それにしても今年の大河は、至る所に「源氏物語」の場面や「枕草子」他、当時の女流文学の名場面、名文がちりばめられているのだそうです。
解説も何もなく、坦々と進行していきますが、庶民的ではありませんね。
ちょっとマニアックです。
そういう所が低視聴率に繋がります。
古典の挿入・・・は大いに結構ですが、凡人にもわかるように・・・説明してほしいものです。
それとも・・・その解説だけで「歴史探偵」などをやるつもりでしょうか。それはイヤラシイ。
中関白家の不幸
権力の絶頂にあった道隆が、「御所には無関係」と豪語していた疫病に感染します。
ドラマでは「疫病など下々のもの、我らに関係なし」と、全く対策をとらなかったということになっていますが・・・もしかして対策をとることが怖かったのかも知れません。
当時の人たちの本能的感覚では「疫病を虐めると、疫病から仕返しを受ける」・・・つまり、作用反作用の法則を感じ取っていて、「触らぬ神に祟りなし」と黙ってやり過ごしたかったのではないでしょうか。
「待てば海路の日和あり」とのセットで、日本人の基本的処世術の一つでもあります。
しかし、残念ながら疫病神は道隆の前を黙って通り過ぎてくれませんでした。
罹患します。
病原菌はどこから、誰から、道隆の元へやってきたのか?
多分、呑み仲間の二人からでしょう。
関白・道隆はアル中とも言えるほどの大酒豪でした。
公務では、専制君主としてやりたい放題、ビシバシと実務を遂行します。
が、Off timeとなると毎晩のように宴会です。
こちらでも「夜の帝王」です。
呑み仲間の二人を自宅に招いて酒盛り三昧です。
道隆は自宅と御所の間を行き来するだけですから疫病に罹患する機会は少ないのですが・・・、仲間二人はどうだったでしょうか。
二人とも道隆より前に疫病で死んでいますから、風紀の良からぬ所にも出入りしていたのでしょう。
どちらかが罹患して・・・みんなに移った・・・。
道隆は高熱に浮かされながら
「極楽にも酒はあるのか、呑み仲間のあいつらもいるのか」
と心配し、それが遺言というか、最後の詞になったと記録されています。
道隆は死期を悟って病中から一条天皇に「伊周(長男)を内覧(官房長官)に」と申請しますが、一条はそれを実行しませんでした。
拒否もしませんが、握りつぶします。
天皇の意思を軽視し、専制を行った道隆のやりかたを拒否したものと思われます。
一条天皇も既に16歳、自分の意思を通します。
後継者・関白に選ばれたのは道兼でした。
・・・その道兼も罹患し、潜伏期間にあります。