八重の桜 19 狐と狸

文聞亭笑一

政治は、狐と狸の化かし合いのようなものだ…といわれますが、1967年10月3日から翌年の1月3日までの90日間は、まさにその連続でした。とりわけ10月の前半は、幕府も、薩長も、相手の裏をかくために手練手管の連発でしたね。

その状況を整理してみます

日時   幕府(一会桑)     討幕勢力(薩長)

10/3  山内容堂、大政奉還を献策 

10/6                   岩倉密議(新政府構想、錦の御旗・図案)

10/8               討幕の密勅案が、討幕派公家へ

10/13  薩摩に討幕の密勅

10/14 慶喜、大政奉還を奏上  長州へ討幕の密勅

10/15 大政奉還が承認される  

10/17 幕府重大会議(大政奉還伝達)  薩摩首脳帰国(小松、西郷、大久保)

ここから11月15日まで…薩長においては、猛烈な勢いで革命準備がなされます。

12/9  王政復古令 新政府樹立…小御所会議

翌年1/3     ……鳥羽・伏見の戦、開戦……

薩摩でも、長州でも、武力討伐反対の意見が根強く、その説得に時間がかかったようです。一方の幕府も、大政奉還を良しとしない老中、奉行、旗本などが江戸城において「反対総決起集会」などを開いて気勢を上げていました。どちらの陣営も、指導者の独断専行で政局が動いていたのです。慶喜狐と岩倉(具視)狸、どちらも知恵の限りを尽くします。

どうみても…狸の方が、動きが速かったですね。先手、先手と動いています。

73、かねてから、土佐藩の山内容堂は武力による討幕をよしとしていなかった。薩長が武力討幕を決め、手を組むという状況になった時、容堂は側近の後藤象二郎に意見を求めた。
そのときに、後藤が上申したのが、坂本龍馬の国家構想だった。徳川は政権を返上し、天皇を中心にして、諸大名、公卿などによる議会を開き、国家の方向を決めていこうとする公議政体論である。

山内容堂という人は、幕府改革論者ではありますが、討幕には一貫して反対しています。

関が原で、家康からもらった土佐24万石の恩義…これに、こだわり続けます。そこに出されたのが坂本龍馬の船中八策でしたから、飛びつきました。徳川を潰さず、しかも、外様の雄藩が発言機会を得る、これほど理想的な折衷案、妥協案はありません。

ただし、容堂と後藤象二郎は龍馬案を改作しています。八策から五策に削りました。

@ 主権在朝 A二院制議会の設置 B学校設立 C外交立て直し D国防軍設置

経済政策は、全く無視しました。こういうところが、上士・殿様らしいですね。

平成維新を唱える徹ちゃんと慎太郎親父…この二人も、多くの共通点を持ちながら微妙な差があります。そして二人とも、経済政策についてはあまり発言していません。外交についても未知数です。そこに…一抹の不安を感じますね。経済と外交は相手のある話なので、理屈通りには進みません。民主党政権の失敗から何を学んだか? それこそが託すに足るか否かの決め手ではないでしょうか。

74、「日本を、神武創世のはじめに戻す。鎌倉開府も、大化の改新も飛び越して、2500年も遡れば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ。皇国を、いったん更地にして、一から作り直すんや」
岩倉は膝を打つと、ねめつけるように天井を見つめ、鼻をならした。

明治維新を成功させた大立者は、やはり岩倉具視ではないでしょうか。この人は公武合体論者で、和宮降嫁の折に活躍しましたが、そのあくの強さが仲間の公家たちに嫌われ、謹慎蟄居の身の上で、京都の北、岩倉に隠れ住んでいました。この知恵者を利用したのが西郷、大久保の薩摩です。政局の知恵はほとんど岩倉具視が立案指示し、実行部隊として薩摩が動き、長州が動いたというのが明治維新です。

岩倉には優秀な秘書がいました。玉松操…文才といい、図案といい、抜群の才能を持っています。10/13,14と連続して出された薩長への密勅ですが、これは玉松の作品です。

天皇の意思など全く構わずに、「討幕をせよ」と文案を作り、これを岩倉派の公家3人に転記させ、玉璽もないままに勝手に薩長に手渡しています。つまりこの密勅というのは偽勅…捏造品なのです。ですから、摂政も、関白も知りません。明治天皇も知りません。

慶喜の大政奉還を承認したのは摂政、関白。そして密勅という名の偽勅を出したのは、天皇の守役、中山忠能など薩長派公家3人組。勝てば官軍ですねぇ。これが正当化されて、歴史教科書に載り、後世の人はそれを信じます。

玉松の作った錦の御旗の図案、菊の紋章に天照皇大神の文字を象ったもの…これは長州に渡り、1か月かけて旗になりました。岩倉具視曰く「建武の中興の折に錦の御旗があったというが、それを知る者は誰もおらぬ。これが、それだ…と言えば、人は信じる」

75、土佐藩には悲報が届いていた。土佐藩郷士に生まれ、憂国の志士として活躍した、坂本龍馬と中岡慎太郎が、河原町の近江屋で刺客に襲撃され、命を落としたのである。

貿易商社である亀山社中(海援隊)を結成し、薩長の密約の斡旋も行い、大政奉還の実現にも尽力した。そして、大政奉還成立後1か月後の11月15日に新しい時代を見ることなく、この世を去った。

享年32.日本の近代化を見据え、動乱の幕末を一陣の風のように駆け抜けた男の、惜しまれる死だった。

坂本龍馬を殺したのは誰か。幕末最大のミステリーですから、多くの歴史家、小説家がこぞって取り上げます。今のところ、実行犯は見回り組の今井信郎ということになっていますが、証拠は本人の自白しかありません。殺人現場の状況から、今井犯人説では辻褄の合わないことが多すぎます。私も推理小説を書きました(龍馬暗殺指令)が、見回り組に龍馬の居所を教えた者がいるはずです。その教唆犯・黒幕は誰か?

薩摩説があります。西郷も大久保も、龍馬が邪魔になっていました。大政奉還などされたら、武力討伐の根拠がなくなってしまいます。

土佐説があります。後藤象二郎は大政奉還のアイディアを考えたのは俺だと、随分と長い事自慢していました。盗作がバレるのを恐れた…という推理です。

そして私は、いろは丸事件で大損をした和歌山藩説。…まぁ、歴史SFですねぇ。(笑)

76、御所では長い謹慎から解かれた岩倉具視が入朝し、天皇に王政復古断行を伝えた。
摂政、関白と幕府、そして守護職と所司代も廃止され、政は総裁、議定、参与の三職で行うことも発表された。続いて、新政府の初めての会議が開かれた。

これが12月9日です。クーデター宣言ですね。徳川を排除するだけでなく、摂政、関白など、それまでの主流派公卿もすべてクビにしてしまいます。

新政権の閣僚名簿を、参考までに載せておきます。

総裁1 (総理) 有栖川宮…皇女和宮の許嫁だった人

議定10(大臣) 岩倉派公家5人(偽勅3人衆を含む)

   大名5人(尾張徳川、越前松平、安芸浅野、土佐山内、薩摩島津)

参与20(政務官)岩倉など公家5人、上記5藩から3人ずつ

          薩摩の西郷、大久保、土佐の後藤などは、当然入っています

見てお分かりの通り、長州はこの時点では入っていません。それは、前帝から罪人にされていたからで、当然といえば当然ですね。

この会議が、最初から大紛糾します。岩倉は徳川家の領地没収と慶喜、容保、桑名藩主の死刑を提案します。これに真っ向から反対したのが山内容堂でした。岩倉具視vs山内容堂…いくつもの回顧録が残っていますが、すごい舌戦だったようです。が、意外なのは、尾張藩主の徳川慶勝、自分の弟二人が死罪になるというのに、弁護していませんね。

この会議では、後藤象二郎が間に入って「まぁまぁ」と折衷案を出し、それに大久保利通が食って掛かり、また岩倉vs容堂の激論を10時間ほどやったようです。まさに、無制限一本勝負だったようで、最終的には高齢の容堂が疲れて押し切られる形になりました。

皆さんは、明治維新の主力は薩長土肥と記憶していると思います。長州も肥前鍋島も、この時点では蚊帳の外です。が、戦争が進むにつれて、腰の引けている尾張、越前、安芸が追い出され、新鋭銃を揃えた長州、肥前が台頭します。肥前藩のアームストロング砲が維新の主役の座に躍り出ました。