水の如く 18 人心の機微

文聞亭笑一

織田の軍勢が秀吉軍だけを残して引き揚げた後、秀吉は長期の持久戦を選びます。

三木城は美嚢川に囲まれた山城で、力攻めするには秀吉軍の人数では足りません。城攻めは、少なくとも敵の3倍以上が必要で、それ以下で落とすには内部に密通者、裏切り者を作るしかないのですが、「織田憎し」で集まった者たちばかりですから調略も困難です。しかも、信長からは「降伏は許すな」と厳命されています。兵糧攻めしかありませんね。

兵糧攻めというには囲みの総延長が長すぎて、あちこちに穴があります。そこから食料が運び込まれ、情報が毛利に漏れますが完全封鎖は物理的に不可能だったでしょう。それでも、大量の物資の運び入れは無理ですから、三木城は徐々に枯渇していきます。

経済封鎖と名を変えて、現代でも北朝鮮やロシアに対する締め付けが行われていますがその効果も長い目で見ないと限定的でしょうね。北朝鮮と中国の長い国境線を完全封鎖するのは無理な話で、脱北ができるということは、その逆もできるということでしょう。

秀吉・官兵衛の直接の敵は毛利ですが、関西から中国筋にかけて本願寺の影響が色濃く出ています。下層武士、百姓、町人と言った大衆レベルの「気持ち」が<反織田>に傾いています。<反織田>というよりは、信長という破壊者に対する恐怖心でしょうね。それを煽るのが本願寺の僧たちによる煽動です。司馬遼太郎は「煽動」というものについて、次のように語ります。

なぜか…という最も重要な論理の核心を曖昧にすることが煽動と言うものであった。

逆に、論理の核心が曖昧であればこそ、人々の戦意は燃え立つ。そういう集団心理の機微を、本願寺は多年一向一揆を経験してきただけに、心得ているようであった。

昔・本願寺、今・マスコミでしょうか。あらゆる課題について、煽動的論調が目立ちます。とりわけ日本の場合、宗教界が低調ですからマスコミが世論を誘導します。「官僚は悪い奴だ、無駄飯食いだ」「福祉は充実せねばならぬ」この辺りがその典型ではないでしょうか。問題の核心を明らかにしていません。「官僚の何が問題か」その核心を不明確にして、問題だ、問題だと騒ぎます。

原発問題もしかり。大衆の恐怖心、不安に便乗して騒ぎます。

69、毛利軍は、水軍の運用に長じていた。彼らは遥かな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を付け、上陸作戦をやる。こういう例は、合戦が無数にあった戦国期でも、類が少ない。
官兵衛は、阿江の別府城の望楼に登って敵の襲来を待っていた。夜はまだ明けない。

毛利水軍は日本にはほとんど例がなかった海軍です。海軍というより、海兵隊と言った方が良いでしょうね。船同士の戦をする軍隊は伊豆、駿河、伊勢、新宮などにもありましたが、彼らは上陸作戦まではやりませんでした。相手の船を焼き、港を制圧して終わりです。その毛利水軍が、三木城を包囲している秀吉の後ろを脅かします。

別所一族でありながら、兄の賀相と別れて秀吉方に付いた別所重棟の居城が、海沿いの阿江にあります。毛利水軍はこの城を狙って上陸作戦を敢行します。別府城は小城です。これといった防衛機能もありませんし、大軍に攻められたらひとたまりもありません。

そこへ8千の軍勢で押しかけます。毛利だけではなく、宇喜多、雑賀などと言った反信長混成部隊です。上陸軍の主力は宇喜多勢でした。

対する秀吉方は城兵500に黒田の手勢300ですから、合わせて800。数の上ではお話になりません。イチコロですね。ところが、この戦いで官兵衛が勝ってしまうのです。

原因は混成部隊のやる気のなさです。指揮官は毛利ですが、作戦の狙いは籠城している別所勢に「いつでも応援に来るよ」というメッセージを送ることと、態度不鮮明な宇喜多の動向を見ようと言うもので、まず、宇喜多勢を上陸させてその働きぶりを見ようとしたようです。が、宇喜多直家は日和見を決め込んでいます。兵力の消耗は避けたいのが本音です。雑賀の鉄砲隊もお付き合い気分で参加していますから、無駄に鉄砲玉と火薬を消費したくありません。どちらも上陸したものの攻めかからず、毛利直属の後続部隊を待ちます。城を遠巻きにしたまま動きません。

最後尾の毛利が上陸してから攻撃が始まりましたが、官兵衛は直近までひきつけてから飛び道具の一斉射撃に懸ります。至近距離ですから無駄なく殆どが命中します。攻城軍はもともとやる気のない宇喜多ですから退却しますが、それを追って母里太兵衛以下の黒田勢が追撃し、混乱した烏合の衆を斬りたてます。こんなことを4,5回繰り返して4日後に水軍は引き揚げてしまいました。それでも毛利は「別所への義理は果たした」「宇喜多はあてにならぬ」という結果を得ての引き上げになります。

小早川景隆、安国寺恵瓊などは、この頃から秀吉への接近を図っていた可能性もあります。その意味では、したたかな政治家ですねぇ。

70、戦争、政治という諸価値の入り混じったややこしい事象を、官兵衛は心理というものに帰納して考えようとする。
心理という、この新しい言葉で彼の生き方を解こうとするのは、用語としては粗雑の気味もあるが、要するに官兵衛は、人の情の機微の中に生きている。人の情の機微の中に生きるためには自分を殺さねばならない。

抽象語を使えば心理、情報操作などとなるでしょうが、もっと抽象化すれば「勢い」でしょうね。最近のマスコミは「風が吹く」などという表現も使います。後の世の勝海舟が「ことをなすは人にあり、人を動かすは勢いにあり。勢いを作るはまた人にあり」と言っていますが、攻める方も、守るほうも人です。そして集団です。

誰しも戦争にはかって手柄を挙げたいのですが、その前に自分が死んでしまっては元も子もありません。味方には手柄への期待を持たせ、敵には死への恐怖心を掻き立てる・・・これが軍師、参謀の真骨頂です。阿江の戦は将にそれでした。敵に恐怖を与えるために、鉄砲は至近距離から顔面を狙わせます。敵は殆ど即死でした。

戦後の褒賞として信長からもらった奥州産の名馬を、大活躍した母里太兵衛に惜しげもなく与えます。これには味方が勇み立ちましたね。

71、秀吉も官兵衛も、岡山の宇喜多直家というのがとんでもない毒物であることは知り抜いており、これが織田家の大名になった場合、大げさに言えば信長はおちおち眠れないかもしれないほどの危険物であろうことはわかっている。

信長は、宇喜多直家と同類の松永弾正で懲りています。いや、それ以上の食わせ物であることを独自の情報網で知り抜いています。信長の情報網は千利休、今井宗薫などの茶人で、堺の商人たちが集めてくる情報ですから、比較的客観情報です。「松永弾正よりあくどい」と知って味方にするはずがありません。

にもかかわらず、秀吉、官兵衛、半兵衛が宇喜多調略に動くのは…多分、直家の死期が近いのを知っていたからではないでしょうか。

72、荒木村重が謀反を企てているといううわさが、播州の陣営に聞こえてきたのは、この年の秋もたけて、十月に入ったころであった。
「風評ですな」と官兵衛は答えたが、その意味は「風評だから気にするな」ではなく、なまなかな事実よりも、しかつめらしい風評の方が恐ろしい、という意味である。

官兵衛の情勢判断の基本になっているのは、70で引用した通り、「官兵衛は、人の情の機微の中に生きている」という世論の動きでしょう。噂が立っても、それを打ち消す行動があれば沈静化しますが、放置しておけば「火のない所に煙は立たぬ」という通り、信用され、尾ひれがついて止めようがなくなります。

原発事故の後「福島産は危険だ」という風評が燎原の火のごとく広がり、3年後の現在に至っても消えません。測定器では「検出せず」と出ても、いまだに売れません。回遊魚などは福島の港で上がれば福島産、福島沖を回遊して三陸で上がれば三陸産となります。そんな理屈はわかっているはずですが、それでも買いません。一旦心に焼き付いた不安感は、多分、一生抜けないのではないでしょうか。そしてその不安を後押しするのがマスコミの連れてくるエセ専門家ですから、風評が定着してしまいます。

昭和20年代の広島産のカキなどは、その意味では実に危険な食材だったはずですが、誰もそんなことは気にせず食っていましたよね。カキと言えば広島でした。

ともかく、村重はこの風評に押しつぶされ、自暴自棄の謀反へと舵を切ってしまいます。「信長や決して許すまい。毛利、本願寺なら自分を高く買ってくれるはずだ」という判断で謀反に走り出します。後戻りはできません。