乱に咲く花 22 禁門の変

文聞亭笑一

長州藩は幕府が約束した5月10日を期して、勝手に攘夷戦争を始めてしまいました。

この「勝手に」というところが一ツ橋慶喜の思う壺で、幕府は朝廷に攘夷の約束をしましたが諸藩に対して攘夷のための軍事行動の指示を出していません。諸外国に対して宣戦布告もしていません。攘夷決行は内政だけのことであって、外交的には「修好和親」を続けています。ですから長州が始めた外国船砲撃は内外いずれから見ても犯罪行為です。中東でイスラム国やアルカイダなどがドンパチやっていますが、法的にはあれと同じことです。

長州軍は毛利一門の毛利宣治郎を大将に、下関他の沿岸砲台に正規軍を繰り出します。そのいでたちたるや…まさに戦国絵巻でした。毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の時代そのままに繰り出してきましたが、鉄砲や大砲は足軽任せです。「武士は鉄砲などと言う下賤な武器は手にせぬ」という部隊ですから、砲撃が始まっても後方で指図するだけで見物人同然です。

毛利砲台の最初の犠牲者はアメリカの商船・ペンブローク号でした。横浜から上海に向かうところを突然砲撃されています。人的被害はありませんでした。次いでフランスの軍鑑が被害に遭います。こちらは水兵4人が死亡しています。商船よりも的が大きく、船員の数が多い分だけ人的被害が出ます。どちらも上海に逃げます。更に、オランダの軍鑑が狙われます。

ここまでは「勝った。勝った。また勝った」と威勢が良かったのですが、ここからです。

欧米諸国が、やられっぱなしで泣き寝入りするはずがありません。キリストは「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と言いますが、その教えを信奉する欧米人はキリストとは正反対のことをします。倍返し…では済みませんね。十倍返し、百倍返しに来ます。

先ず、アメリカは1万ドルの賠償金の要求と同時に軍鑑ワイオミングが報復にやってきました。

亀山砲台を破壊し、海戦で長州の軍艦二隻を撃沈して悠々と引き揚げます。

フランスもやってきます。アメリカに敗けてはならじ…と本腰ですから、250人の陸戦隊を連れてきています。砲台を片っ端からを破壊し、上陸作戦を敢行します。最新鋭の小銃vs刀槍ですから長州正規軍は逃げるのに忙しいほどです。沿岸を占領されて完敗します。ただ、フランス軍が深入りせず、長期占拠をしなかったのは下関付近の地形によります。ゲリラ攻撃を受けたら守りにくい地形・・・これがフランス軍を引き揚げさせました。長州軍が勝ったのではなく、長州の地形がフランス軍を撤退させました。

こういうことを含めて「勝った、勝った」と宣伝したのが、後の大本営でしたね。大政翼賛会の新聞でしたね。その大本営の中核にいたのも長州人でしたねぇ。

晋作は人から救世主と思われなければ何事もできないことを知っている。
彼はこの藩が辿る悲惨な運命を、火を見るような明らかさで予感していた。
予見しつつも、それを冷酷に眺めていた。彼が英雄とか天才とか呼ばれる存在であるとすれば、それは彼がやった数々の奇策にあるのではなく、この雄渾な心胆にあるらしい。

この戦いのさなか、高杉晋作は坊主の姿で松下村塾近くに籠っています。「長州藩など潰れるほどに敗ければよい」と思っていますから、冷ややかに負けっぷりを眺めています。

人から救世主と思われなければ何事もできない というのは群集心理の一つで、現代にも通用する話です。大阪の橋下さんも、そういう雰囲気で登場しました。大阪の地盤沈下を食い止め、発展させるにはこの男しかいない…となったればこその徹ちゃん人気、維新人気でした。その人気の高まりで維新の党は大躍進したのですが、政党間の合従連衡などに首を突っ込んで怪しくなりました。それに気づいて…大阪に専念しましたが熱気が冷めてしまいましたね。マスコミという公家衆に翻弄されて原点を見失いました。

企業、事業などでもそうでしょう。とりわけ、東芝さんの関係者は救世主を求めていることでしょう。信じられないような会計処理が行われていたとは…呆れて物も言えません。

まぁ、この問題については読者に東芝さんの関係者が何人もおられますので深入りを避けます。

奇兵隊は藩の正規軍に対して「奇」なのである。封建時代にあってこのような軍隊を成立させること自体が革命であった。「志がある者」であれば士農工商を問わない軍隊である。
奇兵隊に入った者には姓を名乗らせた。刀も鉄砲も持たせた。このことで封建身分制度は崩れたことになる。奇兵隊の発足から明治維新は出発すると言って良い。

惨憺たる敗戦を受けて、山口の長州藩長はパニックに陥ります。毛利宣次郎を大将にする旧式軍隊の無力さが証明されてしまいました。そこに急浮上したのが高杉晋作への期待です。とりわけ藩主の毛利敬親が期待を膨らませます。

その理由は簡単、単純で、藩の軍学指南、山鹿流の家元・吉田家の伝統を継ぐ松陰の弟子・・・という、それだけだったようです。それならば久坂玄瑞や入江九一などもいますが、「一軍の将となれば上士でなくてはならぬ」という縛りからは抜けられません。松陰の弟子で、上士階級となれば高杉晋作しかいません。藩主の意を受けて

「高杉を呼びましょう」「そうせい」

となりますが、自らは命じず、承認を与えるという形式に最後までこだわった「そうせい公」と言われる藩主・敬親も相当な頑固者ですね。名君なのか、バカ殿なのか…意見の分かれるところです。が、終始そのスタイルを貫いたという点では珍しい人でしょう。志村けんのやるバカ殿とは違います。

高杉晋作のやったことは奇兵隊の創設です。鎧兜に身を固めた五月人形のような兵隊は頭から否定していますから、「やる気」だけを選抜基準にし、人を集めます。「やる気」では聞こえが悪いので「志がある者」としますが、早い話が…好戦的体育会系を集めた集団です。

のちに勝海舟が「長州の兵ときたら、まるで紙屑拾いのような恰好をしていたよ」と回想した通り、筒袖の上着に股引という軽装で、当時の常識を大きく覆すものでした。この服装を見ても、晋作の想定していた戦闘の姿が分かります。機動力を生かしたゲリラ戦…まさにイスラム国的な戦闘スタイルです。

久坂玄瑞や桂小五郎と言った長州藩士が過激公卿を操り、勅書を乱発してその権威で幕府や他の雄藩を押さえつけていた。当然反発が起こる。政治は理性よりも感情が支配する。薩摩の西郷などは「長州の尊皇攘夷は到底純粋なものではない。毛利幕府を作るための道具に使っている」と怒っていたし、孝明天皇ですら、長州人の暴走主義には極めて濃厚な不快感を示していた。

孝明天皇は徹底した夷人嫌いではありましたが、戦争をする気はありません。幕府がその武力をもって、正々堂々と外国軍を討ち払う姿を想定していたようです。だからこそ「節刀」を授けようとし、国家としての堂々たる宣戦布告を求めていました。

ところが、攘夷が始まってみると長州だけが暴走し、しかも惨敗を喫した。その上、日本国土・神州がフランス兵に踏み荒らされたと聞いて憤慨します。「長州の馬鹿どもめ」などと汚い言葉は使わないまでも、そういう心情になりました。取り巻きの公家たちは「負けた、また負けた」とパニックになり「攘夷は中止」「麿は攘夷などと言うてはおじゃらぬ」などと変節します。

   その意味で公家とマスコミは良く似ています(笑)

このチャンスを一気に捉えたのが薩摩藩です。薩摩もイギリスとの薩英戦争を始めていますが、こちらは生麦事件の報復に来たイギリスとの戦いで、「売られた喧嘩を買った。専守防衛である」という建前を取ります。そう言う点では強かですね。

長州はかつて有頂天になり過ぎた。天子を独占し、尊皇攘夷のスローガンを掲げ、浪士を糾合し、公卿団を操作し、まるで京都将軍のような威勢を張ったが、図に乗れば必ず足元を掬われる。
反動が来る。それが来た。

7月に禁門の変が起きます。薩摩と、孝明天皇に最も信頼されていた会津藩の松平容保が連合し、朝廷から長州と、その手足になって働いていた公家たちが追放されます。京に駐在していた最大兵力の2藩が連合して起こした軍事クーデターですから、一晩で京の情勢はひっくり返りました。いわゆる「七卿落ち」で、やりたい放題だった久坂たちの政治工作は根底から覆されてしまいました。

現代に当てはめれば、マニフェスト選挙に敗れた時の麻生自民党がそれです。

増税選挙で敗れた野田民主党などがそれに当たります。

絶対多数を誇った勢力が、一夜にして弱小野党に転げ落ちるわけですから、立て直しも容易ではありません。ただ、長州にとって幸いであったことは、一ツ橋慶喜の将軍後見職辞任で幕府の内部も大揺れに揺れていたことで、リーダ不在の状況にあったことでした。「開国」と言ってみたり「攘夷」と言ってみたり、定見がありません。

ともかく、京の都では新選組による志士狩りが始まり、桂小五郎などは逃げに逃げ回ります。

長州に代わって新選組が有頂天になり過ぎたという状況になりました。池田屋騒動などで松陰の門下生が多数犠牲になります。

両極に大きく振れて中庸が見えなくなる状況を乱世と言いますが、まさに乱世でした。

今回のドラマでは歴史を動かした重大事件にはほとんど触れていません。長州の、松下村塾の関係者の絡んだ事件ばかりで、桜田門外の変、生麦事件、寺田屋事件など斬り合いのある場面は映しませんね。暴力反対…なのかもしれませんが、安上がりなホームドラマでは歴史への興味をそぎます。ドラマを追いかけている文聞亭も…いい加減にしろと、嫌気がさしてきました。

視聴率も日を追って低下傾向のようです。面白くないですからねぇ。