明智光秀 第41回 暗雲漂う

文聞亭笑一

明智光秀を主役とする戦国ドラマ「麒麟が来る」も残り4回になりました。

裏切り者、逆臣と言われてきた光秀を主役とすることに反対のご意見の方もいますが、そういう評価をしてきたのは、光秀の行為の恩恵を受けた秀吉、家康であることを見落としてはいけません。

犯罪捜査の鉄則、王道は「そのことで誰が得をするか?」を考えることから始まります。

光秀の史跡が幼少期から終焉までほとんど残っていません。「光秀像」といわれる肖像画ですら岸和田市に残ったボロボロになった掛け軸の一枚しかないというのが・・・異常です。

光秀が愛した領国、近江・坂本にも、丹波・亀山(亀岡)にも史跡、遺品、肖像画が残りませんでした。

光秀は三日天下、十日天下などと揶揄されますが、天下人になったことは事実です。

世の中の歴史を、安全地帯にいて記録してきたのが朝廷、公家です。

その公家が・・・光秀に関して記録を残していない、いや、記録を消したのは、本能寺の変に朝廷が深くかかわった証拠ではないかと・・・探偵・文聞亭は推理します(笑)

朝廷が光秀に信長暗殺を使嗾し、さらに実行犯・光秀を歴史から消した事件

これが本能寺の事件の本質ではないかと思います。その共犯者・秀吉を太閤にまでしました。

明治維新以後、「万世一系」の天皇家を現人神とする維新政府にとって、朝廷を無力化し、ヨーロッパ的皇帝を目指した信長と、300年の長きにわたって政権を執った徳川幕府は排除すべき対象です。悪党です。

その悪党を倒した明智光秀は表に出てほしくない人物だったでしょう。

学校教育で徹底的に「逆臣・悪党」として教育しました。そもそも逆臣、主殺しを絶対悪としたのは徳川幕府の朱子学です。組織を安定化するために上意下達を善とし、下からの提案は悪としました。

息抜きとして「目安箱」などを設けましたが、士農工商の身分制度が徳川幕府を支えました。

リーダといえども、間違ったことをする者は排斥しなくてはなりません。同盟国・アメリカの現大統領・・・このコラムを永久停止したツイッター社は現代の明智光秀とも言えます。

残り4回になりました。ドラマの原作者・池端さんが本能寺の変をどう描くか見ものですが、まずは、光秀が「敵は本能寺」と采配を振るい、業火の中で独裁者・信長が死ぬ場面ですね。

さらに光秀が秀吉に敗れ、小栗栖で生涯を終えるのを岐阜に残った帰蝶が慨嘆するのでしょう。

斉藤道三が愛した三人の兄弟、長男・光秀、次男の信長、そして妹の帰蝶

戦国大名の典型・道三と、その身内3人の物語・・・のような気もします。

信長とキリシタン

キリシタン切支丹はクリスチャンと同意で、音声を文字にする時の表現の差です。明治になってAmericanを「メリケン」と表現したのは音声的に正解で、英語ではAは発音しませんよね。

信長は最初の上洛の頃は熱狂的に天皇崇拝論者でした。父の信秀が朝廷への献金など勤皇で、その影響を受けていました。

ところが、公家と付き合えば付き合うほどに朝廷の手続きの複雑さや意地悪さ、それに武士を見下す態度に違和感を覚え、反発に繋がっていきます。

その一方で、全く目新しい切支丹・外国人に出会います。彼らの神はデウスと云うようですが、大日如来のようなもので、キリストはお釈迦様か三蔵法師か…似たようなものと理解します。

それよりも信長が興味を持ったのは、ヨーロッパの政治形態と政治手法でしょうね。帝政、帝王による独裁政権でしょう。彼らが持ち込んだ地球儀や望遠鏡ばかりではなく、社会システムの違いに興味津々でした。

信長の残虐さを伝える逸話に、浅井長政、久政、朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ・・・漆を塗り、金箔を張って美術品にしたもの)にして、それを盃に酒を強要した・・・、光秀はそれに耐えかねて・・・云々などとありますが嘘ですね。

ただ、薄濃にしたのは事実で、これは伴天連・ルイス・フロイスから教わったヨーロッパ式の儀礼です。

ヨーロッパでは、善戦した敗者を称えるために、死者の遺骨を装飾して飾る風習があったようです。

我々が小学生の頃、音楽室にはベートーベンのデスマスクが飾ってありました。同じことでしょうね。

信長はそれを真似しただけですが・・・日本では、死体や遺骨に加工を加えることは「死者に鞭打つ行為」として嫌われます。

信長がヨーロッパの新知識に興味を持てば持つほど、朝廷は信長の尊王、勤皇を疑います。

京都所司代・村井貞勝

信長の敵は次々と自滅していきます。武田信玄が消え、上杉謙信が消えます。

残るは関東の北条、中国の毛利、四国の長曾我部、九州の島津ですが、それよりも強敵が朝廷です。

体育会系の「実力」勝負ではなく、「権威」という哲学的、文化的価値観での綱引きですから手強いのです。礼儀、作法は公家たちの持つ武器でもありました。

信長は朝廷対策を担当する京都所司代に光秀でもなく、秀吉でもなく、村井貞勝を指名します。

  十兵衛(光秀)は幕臣時代に公家との交渉が多かった。その分、情に流される

  藤吉郎(秀吉)は手柄を立てようと焦る。そこを公家に付け込まれる

  吉兵衛(貞勝)なら面従腹背の公家どもを、冷徹に、力で脅すことができる

小説「信長の参謀」に公家対策の責任者を村井貞勝に決めたいきさつが書かれていました。

村井貞勝の公家対策はほぼ完ぺきで、朝廷の暗躍する余地は封じ込められています。

更に、信長の発案による京都馬揃え(軍事パレード)が行われ、朝廷が表立って発言する余地を封じてしまいます。

荒木村重の反乱

光秀の丹波攻めの最中に、摂津で荒木村重の裏切り事件が起きます。村重の部下が、兵糧攻めで包囲している本願寺に米を密売したという事件が発覚しました。

軍律違反、利敵行為で担当者の処分は当然ですが、監督責任をどこまで問われるかの問題です。「謝って済む」か「済まぬ」かで、荒木村重の心が揺れました。

この直前に、信長は尾張以来の老臣、林佐渡、佐久間信盛を「役立たず」という理由で改易にしています。新参、途中入社の荒木としては「やられる」と思ったでしょうね。

光秀の説得でいったん信長への詫びに向かいますが、茨木城で与力の中川瀬兵衛に「危険」と脅され、反乱を決意します。信長への不信感、怖さが暗雲のように広がってきていました。