どうなる家康 第15回 同盟? それとも属国
作 文聞亭笑一
先週の大河ドラマは放送時間が町内会の総会と重なり、見ていません。
ビデオも取り損なってしまいましたから土曜日まで再放送を待つしかありません。
NHKは「見逃し配信」なるものを宣伝していますが「そこまでして・・・」と、今週は山勘で書くことにします。
日本版、戦国バージョン「走れメロス」
マラソンの起源となった古代ギリシャの「マラトンの戦い」を彷彿させるような小豆袋レースだったようですね。
Qちゃんや野口みずき選手など、日本の女子マラソンのルーツを見るような場面だったのでしょうか。
日本人女性はおしとやかで云々・・・というのは江戸期以降のことで、戦国期の女性は男勝りの活躍をすることが当たり前です。
現代の奥さん方以上に「かかぁ天下」でしたから「女太閤記」の寧々さん、「利家と松」の前田の松さん、「一豊の妻」山内家の千代さん・・・などなど多士済々でスーパースターの枚挙にいとまがありません。
時代劇に出てくる「くノ一忍者」なども伝令役としてマラソンランナーのごとくに走り回っていたようです。
以前にも書きましたが武田軍には「信州・根津の歩き巫女」と称する「くノ一忍者」がいて、それを取り仕切っていたのが真田一族です。
あえて「くノ一」と書いたのは、皆さんご存じの通り「女」という字を分解して「くノ一」と呼んでいたからです。
越前と朝倉と
先日、「桜を訪ねて蟹を食う」というツアーに乗って福井市内の足羽川の桜を見に行きました。
残念ながら桜は散り終えて姥桜以下でしたが、「北陸一」といわれるだけあって見事な桜並木が続いていました。
前夜に雨が降りましたから、散り残っていた花も洗い流されてしまったのでしょう。
この足羽川を上流に遡れば、一乗谷の朝倉館に達します。
思っていた以上に広大な福井平野ですし、奈良朝以来の越の国の中心であるだけに豊かな田園地帯が広がっていました。
越の国の初代の国司が万葉集を編纂した大伴家持だったようです。
古代からの文化の伝統もあってか、豊かさを感じさせる落ち着いた町でした。
福井県民にとって残念だったのはブランド米「コシヒカリ」が福井農林試験所の開発したものであるにもかかわらず、新潟ブランドとして有名になってしまったことでしょうか。
新品種の開発当初は「味よりも量」が優先して、福井県の農家が誰も採用しなかったようです。
これを採用してブランド米に仕立てたのが新潟県の魚沼郡でした。
コシヒカリの「コシ」は命名当時には越前の「越」だったのですが、今や越後の「越」になってしまいました。
桜は終わってしまいましたが、田の畦には芝桜がびっしりと咲いていて見事でした。
信州の、山間の棚田ばかりを見てきた者にはうらやましくなるような田園風景でしたね。
戦国大名として朝倉家の動きが鈍いのも、そういった豊かさが背景にあるのかもしれません。
ガツガツしなくても食うに困らない・・・越前はそういう土地柄かもしれません。
浅井長政の決断
歴史物では勝者・信長の立場から「浅井の裏切り」と書きますが、浅井側からすれば「信長の裏切り」になります。同盟をしたときと話が違うのです。
信長と浅井は「対等の同盟」を結びました。
ところが、同じく対等の同盟関係にあるはずの織田と徳川との関係を京での動きで観察すると、明らかに従属関係にあります。
織田が盟主となった軍事同盟が形成されつつあり、浅井も徳川や松永同様の支配下国の扱いであることに気がつきました。
しかも、浅井と同盟関係にある「朝倉を攻める」と相談もなしに決めてしまいます。
浅井長政は京に近い土地柄ですから、公家や幕府の旧臣達との人脈もあったはずです。
ですから将軍・義昭が朝倉攻めを望んでいるのかどうか、確認できたと思います。
「朝倉攻めは信長の独断専行である」
「将軍家は信長のやり方に不満を持ち、武田、上杉などに上洛を促している」
こういった情報から、「信長の勢いは長続きしない」と読んだと思います。
となれば、恩人で盟友の朝倉が倒される前に、信長を倒してしまおうという判断になりますね。
北陸道と中山道を共に押さえている北近江・浅井の地理的優位性を生かして、京の将軍を補佐する一番手になることも夢ではありません。
浅井・朝倉連合にとっては、信長軍が木の芽峠を越えて越前に入ってから軍を動かす予定でしたが、信長の素早い逃避、戦場離脱は想定外でした。
浅井正規軍の追跡はほとんど不発に終わりました。
織田軍は想定ルートの北近江へと逃げてこなかったのです。
正信の帰参
金ケ崎の退き陣と呼ばれる逃避行で、偶然の出会いがあります。
三河一向一揆で反乱軍の参謀を務め、家康をさんざん困らせた本多正信が松永弾正の軍にいて、この退却戦では信長の道案内的な役割を担っていました。
その正信が、退却中に一向一揆の落ち武者狩に囲まれた徳川勢を救います。
松永軍の鉄砲隊20名を引率して一揆を追い払い、徳川軍の退却を手助けしました。
大久保忠世を通じて帰参の願いがありますが、家康も迷います
今週は、もしかして、これが「どうする家康」のテーマかもしれませんね。
本多正信・・・家康の生涯を通しての名脇役です。漫才で言うところの相方・コンビです。
「許すべきか、許さざるべきか・・・」家康にとってもハムレットの心境でした。
京から三河に戻る途中の山科で、二人の再会になります。これをどう描きますかねぇ。
姉川合戦へ
信長にとって京での支配を確実なものにするために、岐阜⇔京都間の大動脈である中山道の確保は必須条件です。
その中山道を扼す位置に、敵方の浅井がいると言うことは京の将軍と織田を分断されてしまうことになります。
何としてでも排除したいし、排除できぬまでも中山道の安全確保が必要です。
浅井の本拠地は中山道から離れていますが、支城の横山城は中山道を見下ろすような位置にあります。
この城だけは、何としてでも占領しておかなくてはなりません。
姉川合戦が始まります。
天下布武のためには避けて通れません。
家康も駆り出されます。
ロシアがクリミヤを不当に占拠したのも同じ事で、交通の要衝を確保したかったからです。
ここまでの流れの中で、書き忘れたことがありましたので追記しておきます。
天下布武
信長は岐阜に本拠を移してから「天下布武」の印を使います。
信長の学問の師であり、軍師でもあった沢彦宗恩が提案したもので、稲葉山城の地を「岐阜」と改めたのも沢彦(たくげん)の知恵です。
沢彦をはじめこの当時の戦国大名の軍師、参謀を務めていたのは禅の臨済宗妙心寺派の僧たちです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し・・・」と、恵林寺で武田家と命運を共にした快川和尚もこの宗派です。
妙心寺は当時の学問の中心で、東大か、京大かという存在ですね。
天下布武とは、読んで字のごとく「武を以て天下を治める」の意味ですが、プーチンや金正恩のように「力による支配「力による現状変更」という意味ではありません。
中国の古典「春秋左氏伝」にある言葉です。
モデルになったのは中国古代、周の武王の治世です。
天下布武=七徳の武を備えた者が天下を制する。
七徳とは
1,禁暴・・・暴を禁じる 暴力による支配、管理を排除する
2,戢兵(しゅうへい)・・・兵を戢(おさ)める 軍律を徹底し、軍人の服務規律を維持する
3,保大・・・優位性を維持する 対抗馬に対し多数派、優位性を維持すること
4,定功・・・功を定める 実績重視の公明正大な評価を行う
5,安民・・・民を安んじる 民衆が安心して家業に励む環境作り
6,和衆・・・衆を和らげる 同業などの集団、団体が仲良く共存すること
7,豊財・・・財を豊かにする 自分の財政は勿論、社会資本を豊かにする
足利義昭を奉じて京に入ったばかりの頃、信長はこの規律を狂信的なほどに守りました。
禁暴、戢兵(しゅうへい)・・・京の女子をからかった兵士を、その場で打ち首にしています。
過酷なほどに、神経質なほどに、軍律に厳しかったようで、それは「天下布武」に込めた信長の思いの反映だったのではないでしょうか。
信長はストイックなほどに真面目で、彼の性格からするとアナログ的仏教よりディジタル的キリスト教に親近感を持ったのかもしれません。
ただ、こういう至上主義というか、真面目さというか、息苦しさ・・・に耐えられない部下が多く現れます。
浅井長政、別所長治、荒木村重、松永弾正、明智光秀と、次々に信長のやり方に反旗を翻す者が現れます。
そして秀吉も・・・、家康も・・・、信長流独断政治の息苦しさに辟易としていました。
本能寺の変の犯人には・・・無数の容疑者が現れます。
まさに歴史ミステリーですね。
過ぎたるはなお 及ばざるが如し
沢彦はこの言葉を信長に教えなかったようで、それが織田家の滅亡に繋がりました。