八重の桜 20 巻き添え開戦

文聞亭笑一

時代劇を見ていると、「武士に二言はない」と大見得を切る場面が良く出てきます。この時代の常識として、前言を翻すことは「卑怯」として、嫌われていました。これは武士に限ったことではありません。最も卑しい身分とされていた商人でも、約束破りは信用上の最大の失点で、以後の取引に重大な支障をきたします。古典落語などでは、借金取りから逃げるために、いろいろな面白い話が残っていますが、あれは、熊さん、八さん、与太郎の世界の話です。現代でも、約束違反は悪徳ですが…。

幕末の主役になった薩長土につけられた仇名、というか、評価があります。「薩摩の重厚、長州の鋭理、土佐の与太」というものですが、この『与太』という言葉に含蓄がありますね。この時期、土佐は討幕派か、佐幕派か、実に微妙な態度をとり続けていましたからね。落語の与太郎さんに似て…「二言がある」とも読めます。

こんな話を持ち出したのは、徳川慶喜という人物を説明するためです。慶喜につけられた仇名は「二心殿」です。ふた心のある人物、どちらが本当かわからぬという意味です。仇名の通り、「恭順」と称して京を退去します。そのうち、風向きが変わったと「薩摩討伐」と威勢の良い掛け声をかけます。何度も例に引きますが、鳩山由紀夫がタイムスリップして将軍になったのだと考えると、納得がいきます。

その煽りをまともに食ったのが会津藩、松平容保。藩主がクソまじめなら、藩士もクソまじめ、時流を読む力が欠落していました。今の言葉でいえば…KYでした。

77、覚馬は己の無力さを痛いほど感じていた。会津は薩長に対し後手、後手に回り、さらに、慶喜に振り回されている。
新選組も含め、会津藩兵はすべて、慶喜、容保とともに大阪に向かうこととなった。
この時、覚馬は一人、都に残ることを選んだ。

この当時の覚馬の立場は、会津株式会社企画部長というところだったと思います。重役ではありません。が、役員会には出席し、発言できます。社長の意を受けて、秘密交渉、提携交渉の実行役として奔走します。会社の重要機密もすべてわかっています。

己の無力さを痛いほど感じていたという気持ち、よくわかる気がします。「こんなはずじゃない」「こんなはずじゃない」の繰り返しだったと思いますね。似た立場を経験してきた文聞亭にはよくわかります。

そのすべての原因は、将軍慶喜の気まぐれにあります。

この人の「あした」は読めないのです。右と思えば左、左と思えば右…。部下泣かせと言って、これだけ我が侭な上司はいませんよ(笑)

「経営者は、我が侭でなくては務まらぬ」という言葉があります。その通りだと思います。が、慶喜の我が侭は、度を過ぎていました。「武士に二言はない」という常識と、正反対の人でしたね。

「明治維新は、世界史上類を見ない無血革命であった」と教わった記憶があります。

実際は無血ではなく「少血」でしたが、それでも、数千人の死者が出ました。

慶喜が、もし、「恭順」を貫いたら…多分、数百人の犠牲で済み、「無血」の言葉に値したと思います。会津も、越後長岡も、五稜郭も、戦争なしに終わったでしょう。

そう考えると、二心殿は、絶対にリーダーにしてはいけないタイプです。風見鶏などと呼ばれる人も同様に、トップにつけてはいけないタイプです。ゴマすり名人…論外です。

歴史を読むということは、成功談ばかりではありません。失敗者の分析、これも、大変重要なのです。「過ちて、改めざる。これを過ちという」論語の一説を、改めて噛みしめなくてはいけませんね。

78、大阪に下った慶喜は、着々と形勢を挽回しつつあった。慶喜はイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシャの公使を謁見した。諸国との外交は、これまで通り徳川が行うと宣言したわけである。薩長にとっては由々しき事態だった。

「恭順」だったはずの慶喜が、にわかに自信を取り戻したのは「神戸開港問題」です。

欧米列強は、日本の中心地に近い神戸の開港を、3年越しで要求し続けていました。

これに対して、孝明天皇を筆頭に、朝廷は断固拒否の姿勢を貫きます。攘夷か、開国かの議論の、最後の砦がこの問題でした。

天皇はじめ公卿たちが「絶対反対」の姿勢をとったのは、神戸が都に近いからです。

これは、思想や信条、損得などの理屈ではありません。感情問題です。

外国人は汚い。神国が穢される。……という、怖れなのです。

岩倉具視を中心に、陰謀が進み、新政権樹立の宣言はしましたが、外交問題については、全く念頭になかったのが小御所会議でした。内政一本槍、討幕さえすれば、すべてがうまくいく、という国際環境無視の革命宣言でした。

もちろん、岩倉、西郷、大久保は、この問題のことは念頭にあったでしょうが、討幕が済むまでは棚上げで済むだろう、と思っていたでしょうね。いずれは開港を許可するが、まだ先の話…という認識だったと思います。

が、列強は、列強の公使たちは、本国から「まだか、まだか」の催促を受けていたはずです。幕府に開港を迫ります。

これが、慶喜にとっては起死回生のチャンスでした。フランスをはじめ、列強を味方につければ、薩長など恐るるに足りません。

「県外移設、そうだ! 徳之島は鹿児島県だ」と考えた総理大臣と同じ思考回路です。

79、1866年1月1日、慶喜はついに薩長討伐を宣言。翌二日、幕府方の兵1万5千が、鳥羽伏見の街道を都に向かうことになった。

「恭順」だったはずの慶喜は、「外交」という切り札を思い出して、一転攻勢にかかります。

が、戦争を知りません。「孫子」は読んでいたでしょうが、知識としてだけだった様です。御曹司として育っただけに、喧嘩もしたことがなかったと思います。ですから、15k対5k人、三倍の戦力なら必勝だと考えたと思います。

多くの歴史家は…今回の脚本家も…武器の差に着目しますが、敗因はそれだけではありません。戦略、戦術、用兵…すべての点で間違いだらけです。とりわけ用兵のミスが、ミスというより稚拙さが、勝敗を分けました。

「敵を知り、己を知れば…」というのが戦術の基本ですが、慶喜は敵の兵器を知りません。ゲーベルとライフルの違いが分かっていません。味方のうち、使える者と、烏合の衆の色分けができていません。つまり、陣立てが根本的に間違っています。幕府で使える兵力は、戦意旺盛の兵力は、会津、桑名、大垣藩、洋式幕府軍、新選組程度で、残りは勝った後の追撃要員でした。つまり、やる気がない風見鶏です。

実際、開戦初日は会津と大垣藩、新選組が奮戦して五分五分の勝負でした。

歴史にIFはありませんが、もし、会津と新選組を、遊撃隊として後方に回り込ませたら、この勝負の行方はわかりませんでしたね。

初日の戦いの中で、幕軍で最も活躍したのが大垣藩です。早期に軍制改革を実施し、装備、訓練共に薩長並みのレベルにありました。家老だった小原鉄心、息子の兵部、薩摩の軍勢を跳ね返しています。が、翌日、寝返ります。鳥羽伏見の戦いを決定づけたのは大垣藩でした。鉄心を動かしたのは、彦根清涼寺の雪爪「月落ちて天を離れず」の一句でした。

80、「今こそ、天下に朝廷の威光を示す時でございます」
岩倉は三条を見つめ、声に力を込めた。二人の前には二旈(りゅう)の旗が拡げられている。
一つには日輪、もう一つには月輪が描かれている。岩倉の指示で薩摩が作った偽の、錦の御旗だった。だが、もうすぐ偽物でなくなる。

12・8に大宰府に流されていた三条実美以下の七卿が免罪になり、京に復帰しています。岩倉と三条、策士が二人揃いました。新政府の参謀本部は完璧な体制を敷きます。 錦の御旗…今回の脚本では薩摩が作ったとなっていますが、作ったのは長州・下関です。

まぁ、大久保一蔵が長州に持ち込んで作らせたのですから、薩摩が…も間違いありません。この威力は抜群でした。新式銃以上に佐幕派の戦意をくじきます。

開戦二日目に、この旗が薩摩陣地に立つと、諸藩の烏合の衆は我先にと逃げ出します。幕府の親衛隊まで逃げ腰ですから、残ったのは会津と、新選組だけでした。これでは戦いになりません。

八重の弟、三郎はこの退却戦で重傷を負います。三郎ばかりでなく、会津藩は多くの犠牲者を出しました。クソまじめの悲劇です。