水の如く 19 青天の霹靂(へきれき)

文聞亭笑一

想定外…などという言葉は当時なかったかと思いますが、信長にとって荒木村重の謀反は、まさに「想定外」の出来事だったようです。この前後の信長の言動、行動を見ると、相当慌てた様子が見え、果断な信長らしくありません。明智光秀、羽柴秀吉、松井有閑などという信長政権の大臣クラスを説得に派遣するなどという処置は異常です。これは摂津という土地の戦略的重要性にあったと思われます。

摂津…西国街道の水無瀬から高槻、茨木、池田、伊丹、神戸に至る淀川の北側の地域です。大阪府北部地域と兵庫県東部で、この地域は京都に近く、万一の場合には天皇を担いで「大義」「官軍」を名乗られると厄介なのです。足利将軍の権威はもはや、ないのも同然ですが、天皇という存在はいかに革命者信長といえども無視できません。一向宗・本願寺は「邪教である」と押し通せても、天皇まで邪教扱いはできません。

軍事的に守りにくい京の都を確保するには膨大な軍隊を必要とします。これほど非効率な軍隊の配備はありません。柴田・前田に守らせている北陸も、徳川や滝川に任せている東海地区も、まだまだ安泰ではないのです。謙信は死んでも上杉は健在です。長篠で敗れたとはいえ、戦好きな武田勝頼が甲信から駿河で起死回生の機会を狙っていますし、その東には関八州の雄・北条が控えています。

さらに目を西に転じても、丹波八上城には波多野一族が籠城して敵対しています。三木には別所がいます。紀州の雑賀党は本願寺と連携して抵抗を続けています。それらの動向を含め、一旦は信長勢力が平定した関西全域が雪崩現象を起こす可能性もあるのです。

一発逆転のピンチ・・・という状況でした。

73、官兵衛にとって、戦略上の苦境よりも、彼一個の苦境の方が遥かに凄まじい。
御着の小寺氏は、言うまでもなく官兵衛の主家である。更に小寺氏の当主・藤兵衛政職は、官兵衛が少年のころから仕えてきた相手だけに、もはや主という以外のどういう角度からも藤兵衛を眺められるぬほど肉体化された存在になっている。

播磨の野に雪崩現象が起きます。よりによって…と官兵衛は愕然としますが、小寺藤兵衛が毛利方に寝返ります。「まさか…」という言葉しか出てこなかったでしょうね。

想定外などという半端な言葉では表現できぬほどの驚きだったと思います。官兵衛にとっては血の繋がった父と同様に思っていた主君が敵に回るなどということは青天の霹靂です。

こういう官兵衛の思いと、お家第一で強い方について世間を泳ぐという藤兵衛とは生きている世界が違うのですが、官兵衛の思い、主君への信頼が強すぎて、藤兵衛の腹の内が読めませんでしたね。

現代でも良くある話で、愛情、信頼が強すぎると目が見えなくなります。適切な判断ができなくなります。盲信、盲愛などともいいますが、それがあればこそ人間社会の潤いも出ます。「あばたもえくぼ」などともいいます。人間というものはそれほど理性的なものではなく、感情に動かされます。とりわけ日本人は「裏切りに遭う」という経験が少なかっただけに感情で物を判断することが多いのです。これを美徳とするか、欠点とするか……実に難しい命題だと思います。

会社の経営でも、性善説で行く日本式経営と、性悪説で行く欧米式経営がありますが、多くの企業が多国籍企業となり、海外事業比率が高まると性悪説で行くしかないでしょうね。残念ではありますが「人を見れば泥棒と思え」が現代社会です。とはいえ・・・性善説で行ける範囲が、大きければ大きいほど豊かな社会です。信用社会は自分の身の回りから少しずつでも広げるしかありませんね。誰かが与えてくれるものではないでしょう。

74、この頃の田舎武士に、儒教的な倫理知識などは、ほとんどない。強い方に靡くという功利主義が津々浦々まで支配していたが、官兵衛の黒田家にあっては、祖父の代からそういう知的傾向が強く、だから、道理とか非道とかいう倫理用語を官兵衛は使うのである。

戦国時代は、現代のビジネス社会によく似ています。現代は法整備が進んで、あまりにもひどい功利主義は排除されますが、それでも企業社会の不祥事は後を絶ちません。倫理という…人としての道が希薄になり「法律で禁じられていなかったら何でもあり」がまかり通ります。時々、「適法ではあるが道義的責任に反する」などというマスコミ論調がありますが、そういう彼らとて道義的に首をかしげることを平気でやりますから、社会の木鐸などと偉そうなことは言えません。

官兵衛の家…黒田家というのはこの当時では例外的です。祖先が連歌師であったこともあり、代々文化的に超越しているということが生き残りの方法だったのでしょうか。

少なくとも官兵衛は幼少のころから論語などには精通していたと思われます。

75、御着では姫路衆のことを「姫路のマタモノども」と呼んで、一格も二格も下の人間として扱った。人間の神経は必ずしも鋭敏ではなく、飢え以外のたいていの肉体的苦痛に耐えられるが、差別と蔑視にだけは耐えられない。

マタモノとは陪臣と書きます。つまり、正社員ではなく下請けの従業員。または派遣社員、パート、アルバイト、臨時工、という意味です。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず…と福沢諭吉が「平等」を唱え、日本人全員が理屈として理解しているはずですが、それでも先に挙げたような呼び名を作ります。

司馬遼は差別と蔑視にだけは耐えられないと言いますが、まさにその通りと思います。

私がかつて担当した会社は、親会社からの出向社員が60人、合弁先からの出向社員が10人、それにパートナ会社の社員が100人ほどでしたが、それぞれに身に着けている企業風土というか、企業文化が異なります。仕事上の役割も、営業、企画、計画という上流工程から、設計、管理という中流行程、そして製造、製作、サービスという下流工程に分かれます。そういうところから…階級意識が育ちやすくなります。出身企業による差別、蔑視が起きやすい環境でした。徹底的に「下請け」「外注」という言葉を排斥しましたね。

パートナ、ウイン・ウインなどという横文字ばかりで運営しましたが…それでも潜在意識までは変えられませんでした。どこかに…歴史を引きずっていますね。

韓国、中国が「歴史」「歴史」と大騒ぎするのも、そういう潜在意識を呼び覚まして自国の有利に外交を展開しようという腹でしょう。過去に差別と蔑視があったことは事実ですが、韓流人気や日本の経済協力を犠牲にしてまで騒ぎ立てるのが得策とは思えません。新たな差別意識や蔑視を生み出していることに気が付かないのでしょうか。

…ともかく、官兵衛の部下たちは官兵衛の御着行きに反対します。

76、「官兵衛を殺してくれ」と、主人の藤兵衛が村重に言い送っているなど、後に秀吉が天下第一の知恵者と、半ば嫉妬まじりに言ったほどの官兵衛ですら、思慮の中に全く浮かんでいなかった。官兵衛ほどに人間の善悪や心理の機微の洞察に長けた者でさえ、人間と言うものがそれほどの悪をするものとは思っていなかった。

話が脱線しますが、「秀吉は半兵衛、官兵衛の知恵に嫉妬していた」というのが司馬遼の播磨灘物語で一貫して貫かれている仮説です。太閤記と黒田家家譜の記述の違いなどを見ると、官兵衛を遠ざけてから秀吉をスーパーマンに仕立てるべく太閤記を改竄したことや、官兵衛の息子の黒田長政(松寿丸)が秀吉や豊臣家を嫌った理由のようで…何となく納得します。

それはさておき、小寺政職が村重謀反の情勢を見て寝返りを打ちます。政職にも罪の意識があったのでしょうね。自分を信頼して丸腰、単身で乗り込んできた官兵衛を御着城内で暗殺するほどの度胸はありませんでした。殺人の実行犯になるのは寝覚めが悪いので、荒木村重に殺してもらおうと謀ったわけで、殺人教唆ですね。そう言う点では実行犯より卑劣なワルです。ここにも嫉妬という心理が多分にあります。小寺政職は自分の部下である官兵衛が、羽柴秀吉にべったりなのが気に入らないのです。

「官兵衛は俺の部下だ」という気持ちと、「秀吉というのは水呑み百姓の倅だ」という階級意識が最後まで抜けきらなかったようです。名門意識、エリート意識もここまで来ると病気ですね。

現代でも、この、名門意識は随所で悪さをします。高学歴の者は政職と同じくエリート意識で現実を歪めて見ますし、学歴の少ない人は劣等意識が現実を捻じ曲げます。人物の大小と学歴は必ずしも比例しません。というより…全く別次元のもので、それぞれの人生経験とそこから得た知恵が、人物の大小を規定します。

官兵衛を捨てたことで、小寺家は歴史の舞台から消えてしまいました。