乱に咲く花 23 長州発狂

文聞亭笑一

先週号は少しばかり先走りしました。禁門の変で、長州やそのシンパの公卿たちが追放されるいわゆる七卿落ちは今週のようです。その分、雑談というか、寄り道ができそうです。

今週は、薩長史観では、いわゆる悪党の代表のように言われる徳川慶喜について触れてみることにします。作家、歴史家によって実に評価の割れる人ですが、この人ほど孤独な政治家はなかったのではないか、と同情してしまう面もあります。

徳川慶喜は水戸烈公・斉昭の7男です。このことが、良くも悪くも慶喜の生き方に影響します。水戸烈公は「攘夷」の権化です。ある種の宗教的な意味を持つほどに攘夷の志士たちから期待されていました。慶喜はその息子で、しかも頭脳明晰、胆力もあると評判でしたから志士たちからは期待の星、盟主として自分たちを導いてくれるのではないかと熱い視線で見られていました。反面、斉昭は大奥から徹底的に嫌われていました。37人も子供を作ったというほどの精力絶倫男ということと、慶喜を一ツ橋家に送り込んで徳川本家を乗っ取るつもりに違いない…と、邪推されていましたね。

その一方、養子に入った一ツ橋家というのは、8代将軍吉宗が自分の血脈を将軍として残すために立てた家です。いわゆる大名ではなく将軍家の分家のようなものです。従って先祖代々の主従関係で繋がっている「家臣」がいません。徳川本家の旗本が「出向社員」のような形で身の回りの面倒を見る形態で、子飼いの部下という存在がいないのです。慶喜の右腕と言われた平岡円四郎は幕府からの派遣社員ですし、その後を引き継いだ原市之進は水戸藩からの派遣社員でした。何れも俸給は出向元から出ていますから、他の大名家の家臣のような「忠義」に欠けます。

この二つ、親の因果と股肱の部下がいないことで実に孤独な立場でした。にもかかわらず…、有力大名や攘夷の志士たちからは身に余るほどの期待を受けるのです。しかも身を持て余すほどの才能の持ち主でしたから、スタンドプレーと受け取られるような政策に走ります。現代でいえば「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎的なところがありました。

「花燃ゆ」の今週の場面あたり、幕府と言えばこの慶喜のことですが、老中を始め内閣は慶喜の動きと全く連動していません。むしろ「お手並み拝見」とシラケていたと言って良いでしょう。

例えば、生麦事件の賠償問題では「戦争になっても払わぬ」と、言っていた慶喜に逆らって、老中の小笠原長行が独断で27万両に近い賠償金を支払ってしまっています。現代に換算すると160億円もの大金です。

余談になりますが、イギリスはこの後も薩英戦争を仕掛けて薩摩藩から7万両(約40億円)の賠償金をせしめています。生麦事件(一人死亡、2名重傷)だけで200億円とは荒稼ぎですねぇ。しかし、その後に薩摩とイギリスが手を組んだ関係から、薩長史観ではイギリスは悪い奴だとは決して言いません。賠償金を払った幕府が馬鹿だということになっています。

そんな中で慶喜は独裁的政治手法を取ろうとします。

司馬遼「最後の将軍」によれば

二度目の上洛とともに、慶喜は朝廷、公卿、大名を一手に握って政界を独裁しようとした。
それ以外にこの混乱を収拾する道はないであろう。
慶喜は松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光を招き後見邸会議を開いた。

とあります。

後に参与会議とも呼ばれますが、これに孝明天皇の信任篤い会津の松平容保を含めた6人で公武合体内閣とし、自らのリーダシップで国論をまとめようとしましたが…失敗に終わります。

それはそうでしょう。「与野党連立内閣」と形だけ作ってみても意見がまとまるはずがありません。言ってみれば各球団の花形4番打者をずらりと並べたようなオールジャパンチームで、俺が、俺が、と自己主張するだけです。バント、盗塁のサインなどには首を振ります。慶喜監督のサインに忠実に動くのは松平容保くらいなもので、他の面々は一発ホームランしか狙わず、そう、ブンブン丸です。三振ばかりでチームとして機能しません。

案の定、1863年の12月に発足して、翌年の3月には解体しています。

この会議体…どうやら幕府贔屓の、フランス公使ロシュからの入れ知恵だったようですね。

この当時のフランスはナポレオン3世の時代で、ロシュはその寵臣であったようです。慶喜をナポレオン3世=皇帝になぞらえ、参与会議を国会として機能させたらどうかと言うものでした。

ただ、慶喜の意見がコロコロ変わるのと、独断が過ぎるので嫌気がさし、まず土佐の容堂が一抜けた、島津が、伊達が…と国許に引き上げ、温厚な春嶽まで福井に引き上げて消滅し、残ったのは一ツ橋慶喜、会津、桑名だけでした。これを「一会(いちかい)桑(そう)」政権とも言います。

この当時の川柳に 数の子は 無事で鰊(にしん)が へたりたる があります。

かずのこは…和宮・公武合体、鰊は「二心殿」と揶揄された慶喜を指します。攘夷といったり、開国といったり、言うことがコロコロ変わるために付けられたあだ名です。

ついでですから生麦事件に派生した薩英戦争に触れておきます。幕府から賠償をせしめたイギリスは、柳の下の二匹目の泥鰌を狙って錦江湾に軍鑑を乗入れます。これに反撃した薩摩の砲台との大砲の打ち合いになり、鹿児島は500戸が焼けましたが、2日間で英国側の死者13名、負傷者60名を出して英国艦隊は撤退しています。明治政府はこれを「勝った、撃退した」と言っていますが、英国艦隊が引き上げたのは石炭と弾薬の不足が原因でした。その後の交渉で40億円払っていますから結果は「薩摩の負け」ですね。 (薩英戦争;半藤一利「幕末史」より)

晋作は薩摩を憎悪しぬいていた。その憎悪の目を持ってこの長州追い落としの政治劇の主役が幕府や会津藩などではなくて、薩摩であると見抜いたが、この点、桂も同じ見方を採っていた。薩摩は、この日本に革命が起こるとすればその先導権を握りたいと考え始めており、そのためには長州を追い落とす必要があった。

尊皇攘夷VS佐幕開国・・・という図式からすれば、薩摩藩の動きというのは実に不可解です。

薩摩藩は、先代島津斉彬は実に開明的な殿様でした。沖縄を薩摩藩の属国としたあたりから、西洋諸外国の動きを意識し、その先進的な科学技術を貪欲に吸収してきました。斉彬が鹿児島に作った工業団地は、それまでの日本の職人の世界とは比べ物にならないほどの官営工場群です。現代日本は工業立国、技術立国がいわば国是ですが、それを最初に始めたのが島津斉彬でした。

この人が、もう少し長生きして、国論が開国に収斂していくのを待つことができたら…幕末の日本の姿は全く変わったものになったでしょうが、美人薄命、名君短命は世の常です。

斉彬の遺志を受け継いで、しかし、斉彬ほどの見識のない西郷隆盛が薩摩をリードします。

そうなると政治臭さがプンプン匂い出して、しかも「薩摩」の癖のある文化が目に付き、鼻につき、敵を作ります。感覚の鋭い晋作などには我慢できぬ異臭を感じさせたのでしょう。

京にいる桂小五郎も久坂玄瑞も、晋作同様に「松下村塾の激徒」と呼ばれているが、皮肉なことに過激を通り越して発狂状態にまで高まってしまった藩内の沸騰を抑えることに躍起になっていた。思想の時代が終わり、集団が発狂舞踏する時代が始まった。

晋作が結成した奇兵隊は、彼の狙い以上に長州人を興奮させました。奇兵隊に入れば苗字帯刀が許されるのですから、守るものがない貧民階級にとっては降って湧いたような新天地です。続々と隊士が入隊してきます。「無駄飯食い」「寄生虫」などと厄介者扱いされていた面々にとっては天国です。尊皇でも攘夷でもなく、「機会均等」の平等に熱狂しました。誰でも政治の中枢に参画できます。

この雰囲気、高度成長時代を生きてきた我々に共通します。機会均等でした。革新政党と言われる人たちが主張する結果平等ではありません。参加する機会は均等に与えられ、結果はその人の働き次第という自由主義の世界です。

機会は平等に与えられる。しかし、結果はその人の望んだ方向と能力との重奏関数でいかようにも変わります。自己責任とはこのことで、たとえ結果が悪くとも他人のせいにはできません。現代も、そういう時代なのですが…、「社会の責任」などという屁理屈をこねて他律を主張する勢力があります。赤党や労働組合ですが、甘えの発想だと思いますねぇ。賛成しかねます。

近藤勇率いる新撰組は、「浮浪を徹底的に取り締まるのだ」と言って、池田屋に集まっていた 長州藩を中心とする浪士団を襲った。闘死したもの10名、重傷の後死亡3名、捕縛され斬られた者9名を数える。これが池田屋事件である。

京は一会桑政権で小康状態を保ちます。慶喜に愛想を尽かした松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城などが国許に去り、毛利も追い払われて表面上は幕府の権威を取り戻したかに見えます。が、過激派浪人たちはあちこちにアジトを作り、一発逆転の機会を狙います。いわゆるゲリラ蜂起です。この策の中心にいたのが熊本浪人の宮部鼎三で、実行部隊として最大勢力を保持していたのが土佐勤皇党でした。更に、朝廷工作と資金提供をしていたのが長州藩です。

彼らは天皇の大和行幸を企画します。天皇が橿原神宮に参詣し攘夷を祈願するために都を空ける。その間に京を焼き討ちして政権に大ダメージを与える…という企画でした。

池田屋は、その規格を実行に移すためのアジト、作戦会議の場所でした。

この情報をつかんだのが新選組です。池田屋騒動…新選組の大活躍する捕り物シーンは映画、ドラマの格好の見せ場ですね。「今宵の虎徹は血に飢えておる」と言ったかどうか…、13人もを即死させていますから、物凄い惨劇でした。勿論、池田屋の周りは会津藩が取り囲んでいますから逃げ場はありません。アメリカのイスラム国空爆とは違って一網打尽の体制でした。

戊辰戦争で、長州藩が必要以上に會津を虐めたのは、この時の怨念でした。

因果応報、作用反作用の法則……戦争はしたくないですねぇ。遺恨が残ります。