明智光秀 第42回 馬揃え
文聞亭笑一
先週の放送で正親町天皇が織田信長になぞらえて「桂男の伝説」などを語る場面がありました。
そんな話の存在が全く初耳でしたし、聞いていて何となく…芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」に出てくるカンダダに似た話だとも思い、物語の原典か?と思ったりしました。
調べてみたら全く違いました。中国では月の兎と同様に「月の陰影が木を伐る男に見える」というので、これに呉剛という名をつけて「月宮殿の木を伐る男」と呼んでいたようです。
中国では前回のドラマのようなストーリも教訓もなかったようですが、日本に伝わってから「欲張り男」の物語ができたのでしょうか。
はたまた・・・ドラマの原作者の創作でしょうか?
それにしても、今回の大河ドラマは古典を良く引用していますね。月と桂男の話はかなり古くから日本に伝わっていたらしく、万葉集、拾遺集に桂男の歌があります。
目には見て 手には取らぬ月のうち 桂の如き妹をいかにせむ (万葉集)
ひさかたの 月も桂もをるばかり 家の風をもふかせてしがな (拾遺集)
どちらも桂男=水も滴る美男子と捉えています。「月下美人」という言葉の男性版ですね。
月に住む女にはかぐや姫もいます。月には美男美女が住む・・・と古代人は想像したようです。
私は全く気づきませんでしたが、38話では光秀が煕子に坂本城の天守閣からの眺めを見せるシーンで、バックに流れた今様の歌詞にも桂男が歌われていたようです。
月は舟 星は白波 雲は海 いかに漕ぐらむ 桂男は只ひとりして
この歌も、下敷きになっているのは柿本人麻呂作という万葉集の歌です。
天の海に 雲の波たち月の舟 星の林に漕ぎ隠れ見ゆ (巻⑦ 1068)
夕暮れの三日月を船に喩えるとは…まさに万葉ロマンですねぇ。こういう世界に生きているのが朝廷であり、公家であり、教養人と言われる人たちで光秀もそれに入ります。
その一方に実力主義、合理主義、現実論の信長がいます。将に・・・水と油です。
朝廷と織田政権
朝廷と信長との関係は、時を重ねるごとに悪化していきます。互いの不信感が募って同床異夢の関係になりつつありました。足利義昭を奉じて上洛した頃は互いに尊敬し合っていました。
信長は父譲りの尊王精神で、朝廷への経済支援に努めます。
朝廷も、ようやくにして経済危機を脱し、朝廷らしい形が整えられました。信長に感謝します。
互いの立場が安定し、互いに「あるべき姿」に向かって行動に入ったころから、両者の関係が怪しくなり始めました。
朝廷は足利将軍を使って、「上から目線」で位討ちという得意技で信長を懐柔しようとします。
・・・が、合理主義者の信長は全くその手に乗りません。
さらに、朝廷は古い権威を守ろうとします。
とりわけ比叡山、本願寺など宗教団体の肩入れをする傾向が見えます。
信長から見れば「利敵行為」ですから朝廷への不信感が芽生えます。
今回の物語では、信長贔屓の二条関白と、朝廷主導派の前・関白近衛前久の、朝廷内に置ける主導権争いも絡めているようですが「正親町天皇自身が信長を信用していない」という点が重要な要素です。
本能寺にも繋がっていく分かれ目です。
前回の月見のシーンをどう読むかですが
「信長に専横の動きがあれば、その時は月に送れ」という暗黙の教唆だったとみます。
こののち、信長は正親町天皇に譲位を求め、誠仁親王の即位を要求します。
これが・・・光秀へのGo-sign、暗殺指令だったのではないでしょうか?
信長包囲網の瓦解
1579年6月 丹波八上城が落ちます。これで丹波の平定が成り、光秀は34万石の大名になりました。
その後、細川、筒井などを与力大名に加え、100万石の軍司令長官になります。
同年10月には荒木村重の有岡城、尼崎城が落ちます。
1580年に入ると秀吉が攻めていた播磨・三木城が落城します。
これで本願寺を支援する勢力が近畿から消え去りました。
孤立無援となった本願寺は、朝廷に頼って勅命和解の道に進みます。大阪の要塞・石山本願寺を明け渡すことになりました。
これで毛利家が支援していた近畿の反信長勢力は完全に排除されてしまいました。
京都馬揃え
本能寺の変の一年前、天正九年(1581)2月28日、信長は朝廷はじめ、全国の大名に向けての示威活動として、京都御所で軍事パレードを開催します。
これは単に市中を行列して練り歩くというパレードだけではなく、御所の東庭を臨時の演習場にして、騎馬兵による突撃演習まで含まれます。これに信長や息子の信忠も参加します。
武器を持つ騎馬兵が天皇隣席の桟敷の目の前を猛スピードで行き来しますから、戦場に出たことのないお公家さんたちは恐怖心さえ覚えますね。
西国の毛利や長曾我部、島津などへの脅しもさることながら、一番の狙い目は・・・正親町天皇に信長軍団の武力を見せつけ、信長が要求している「天皇の交代」と、「信長への全権委任・・・つまり将軍職の委任」を認めさせることだったと思います。
さらに、御所の東庭を使うには「牛車宣旨」という面倒な手続きが必要なのですが、信長は敢えてこれを無視します。朝廷の煩雑な手続きには、抜本的な行政改革が必要だ!と、喉元に刀を突きつけるような態度でもありました。
「天下布武」とはこれだ! 文句あるか!
こんな感じの・・・啖呵をきったお祭り騒ぎですね。天皇への示威、脅迫です。
このパレードの企画をし、実行指揮をとったのが明智光秀です。
現代でも北朝鮮では大々的に軍事パレードをやって、内外に軍事力を見せつけようとします。そこまでしなくとも、軍事演習を公開して報道するのは現代でも良くあることですし、それによって政治的主張を勝ち取ろうというのも良くある手法です。イランの核開発などもそれですね。
信長が将軍職にこだわったのは、将軍だけが幕府を開けるからです。
「幕府」とは「占領軍総司令部(GHQ)」と同じ意味で、占領地に対して全権を持ちます。
つまり、信長が日本全国を占領してしまえば、全ての権力は信長の手に落ちます。
切支丹からの情報も加味して「皇帝・信長」「法皇・天皇」のような政治形態を考えていたのかもしれません。
一方の正親町天皇は、最後まで…信長への将軍宣下をしませんでした。