どうなる家康 第16回 合従連衡
作 文聞亭笑一
先週の姉川合戦では「アッと驚く仮説/新説」が出てきました。
家康が「織田に付くか、浅井に付くか」で迷い、迷った挙句に・・・信長から鉄砲を撃ちかけられるという展開でした。
これって、どこかで見たような話ですね。
そう、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の態度と瓜二つです。
関ヶ原では秀明が迷い、決断を促すために家康が松尾山の小早川陣に鉄砲を撃ちかけています。
全く同じ事が姉川でもあって、それを教訓に関ヶ原では家康が実行した・・・と言うのでしょうが、織田陣で鉄砲が発射されたらそれは開戦の合図です。
前線で戦争が始まってしかるべきですが浅井長政は「粛々と」河を渡っています。
銃声を聞いても反応していません。
時代考証の小和田さんも今回ばかりは悩ましいでしょうね。
「明らかな間違い」「史実に反する」ことが証明できない限り、僅かでも可能性があれば・・・仮説が成り立ちます。
今回の大河は通説とされる物語への挑戦のようですね。
駿河争奪戦
家康が上洛し、越前や姉川を転戦している頃、駿河を手に入れた信玄は手をこまねいていたのでしょうか。
そんなことはあり得ません。
家康が留守にしている間に駿河を固め、遠江に侵略し、三河にまで手を伸ばすはずです。
・・・が、それができませんでした。
信玄の西進を止めたのは小田原の北条です。
北条氏康は今川健在の頃の相甲駿三国同盟の誼で娘婿の今川氏真をかくまっています。
武田が旧今川領で勝手なことをするのを許せません。
信玄が西へ向かおうとする都度、東の伊豆から兵を駿河に侵攻させ武田軍の背後を突きます。
ですから家康が留守にしているにもかかわらず遠江への侵攻ができなかったのです。
北条の動きに業を煮やした信玄は、北条の意表を突いて信濃から上州、武蔵へと迂回して東から小田原城に攻めかかります。
意表を突かれて北条は小田原城での籠城戦に入ります。
当時の小田原の人口は十万人と言われ、京に次いで日本第2位の大都会でした。
その小田原が、町全体を城壁で禍根が「総構え」の中にあります。
武田騎馬軍団とて力尽くで倒せる要塞ではありません。
信玄が攻撃する以前に上杉謙信も小田原に迫りましたが、この総構えの前に撤退を余儀なくされています。
武田軍は小田原を包囲しても長期戦はできません。
海は小田原水軍が制海権を握っています。
上州から武蔵野、さらに房総の北条勢は無傷で、そのうち後方から攻めてきます。
長居はできませんから、城を囲んだだけで・・・撤退するしかありません。
その退却戦の三増峠の戦いでは大敗を喫しています。
信玄の戦いとしては大失敗の一つです。
そして、氏康の後を次いだ北条氏政は越後の上杉と同盟を結び、北条との対決姿勢を鮮明にします。
昨日の敵は今日の友、呉越同舟、合従連衡・・・色々な言葉がありますが、戦国の世では約束事は有って無きに等しいですね。
ワルシャワ条約機構が潰れ、NATOが勢力を拡大し、それに対抗して中ロが結託します。
現代とて戦国時代の入り口にいるのかもしれません。
小田原城の総構えは戦国の竜虎と言われた謙信、信玄を寄せ付けませんでした。
その成功体験が仇となり、後に秀吉と対決してしまうという愚を犯すことになります。
家康、越相同盟に加わる
物語の時代は1570年頃の群雄割拠の頃です。
物語は近畿、中部を中心に進んでいますが、日本中が麻のごとく乱れて同盟し、戦い、また相手を変えて・・・とめまぐるしく動きます。
家康にとって三河の安定はもちろんのこと、遠江を確実に支配下に修めることが急務です。
岡崎を中心とする三河は、東の酒井忠次と西の石川数正が管理体制を充実させ、経済、内政は岡崎三奉行と言われる高力、本多作左、天野三平が善政を敷いています。
三河のことは奉行衆に任せ、家康は遠江進出の拠点として浜松への進出を決意します。
ドラマでは「信長に言われて嫌々ながら・・・」という設定ですが、自発的決断だったと思いますね。
今回のドラマは家康を優柔不断なヤワに描きすぎです(笑)
とはいえ、タイトルが「どうする?」ですから毎回迷ってもらわないといけないんでしょうね。
防衛拠点として、また政治の中心として浜松城の建設に当たります。
現代の浜松は関東と関西の丁度中間に当たり、東西交流の拠点ともなっていますが建設当時の家康には「東西をつなぐ」などと言う大それた構想はなかったと思います。
浜名湖と、天竜川と太平洋の水に囲まれた要塞であり、水運の拠点・・・それが浜松城と城下町の基本構想だったでしょう。
とりわけ天竜川は駿河から押し寄せてくる武田軍を防ぎ止める防波堤として期待したと思われます。
しかし、後の三方ヶ原の戦いで信玄は家康の思惑の裏を掻き、天竜川を渡らないルート、信州飯田から三河へと雪崩れ込んできました。
戦略、戦術は信玄の方が一枚も、二枚も上手です。
さて、家康の外交として、信玄を牽制するためには信玄の最大のライバルである上杉と同盟しておく必要があります。
この交渉に配下の誰が当たったのか? 手元に資料がありませんが、全国を流浪した経験のある本多正信が担当したのかもしれませんね。
家康の重臣達で外交交渉ができそうな者は見当たりません。
敢えて言えば石川数正ですが、数正は岡崎で信康の教育と三河の内政を中心に活動していますし、越後に人脈はありません。
もしかすると・・・北条に亡命している今川氏真が仲介した可能性もありますね。
越相同盟に三河が加わる形でしょうか。武田包囲網を形成します。
信玄も動く
この動きに信玄が手をこまねいているはずがありません。
家康など相手にしなくても、その後ろ盾である「信長を叩けば家康などは自然に枯れる」と信長包囲網を形成していきます。
その包囲網には比叡山や本願寺などの宗教勢力が加わります。
とりわけ比叡山は信玄に緋の衣を授けたこともあって武田に協力的です。
比叡山、北近江(浅井)越前の北国ルートから京と美濃の分断を図ります。
移動には琵琶湖の水運が使われますから行動は神出鬼没となります。
さらに、この動きに将軍・義昭が絡んできます。
全国の大名に「反信長」の指令書をばらまきます。
さらに一向一揆の大本山・本願寺が随所で蜂起してゲリラ戦を展開します。
そして、播磨では別所長治が信長に反旗を翻し、それを毛利が支援すると言った動きになります。
信長にとって家康の存在は「ともかく武田の西進を防いでくれ」と祈るような気持ちではなかったでしょうか。
命令口調で、高飛車なドラマでの信長・・・もしそうだったとしたら、それは内心から発露するイライラの感情表現かもしれませんし、信長を「異常人格者」として描くつもりかもしれませんねぇ。