水の如く 20 松寿丸隠匿

文聞亭笑一

官兵衛の長い、長い幽閉生活が始まります。当時「為せば成る、なさねばならぬ何事も、ならぬは人の、なさぬなりけり」などという言葉はありませんでしたが、官兵衛としてはそういう気持ちで伊丹・有岡上に乗り込んだと思います。が、結果は「飛んで火にいる夏の虫」でした。

今回のドラマでは軟禁され、その後、脱走を試みて失敗し、地下牢に幽閉される、となっていますが、官兵衛が幽閉された獄舎は武器の貯蔵に使われていた横穴だったようですね。いわゆる室(むろ)か、近代の防空壕のような古代の横穴式古墳だったと思います。広さはありましたが立つことができなかったようですから高さ1m30cm位ではなかったでしょうか。閉じ込められた直後の官兵衛の気持ちを司馬遼は官兵衛に自嘲させています。

<知恵誇りの者が辿り着くのはたいていこういうところだ>

智恵者は、道具でいえば刃物のようなものだ。手斧で柱を削り、ノミで穴をうがち、鋸で木を伐る。道具でもって家も建ち、城も建つ。なるほど偉大なものだが、しかし板にちっぽけな古釘が一本入っていただけで刃は欠けて道具はダメになる。

<知恵など、たかが道具なのだ>

この気持ち…よくわかります。似た体験をしましたからねぇ。上司や先輩から叱られる言葉は決まって、「出る杭は打たれる」「雉も鳴かずば撃たれまい」とありがたい(笑)忠告でしたが、また出てきて、また鳴いて…浮き沈み。「文聞亭」の筆名は、現役時代のあだ名・ブンブン丸から採りました。それでも「クビ」と殺されなかったのは、ベンチャー企業の代表と言われた会社にいたお陰です。ありがたや、ありがたや。感謝しています。

77、人間が無言でいることがいかに辛いか、この牢に棲んでみてわかった。人間というのは常に相手を求めているらしく、一人で暮らせるようには作られていないことを知らされた。初老の牢番が口をきいてくれるだけで、官兵衛はこの男に縋り付き(すがりつき)たいような衝動を感じた。

人間としてこの世に生まれて以来、一人になる経験というのは比較的少ないものです。それでも最初に孤独を感じるのは弟や妹の生まれた時で、親の関心が奪われた寂しさを感じ、耐えます。次が下宿や寮に入った時でしょうか、友人ができるまで孤独を味わいます。こういう時に「人間は集団で生きる動物だ」などと哲学?を想います。が、伴侶を得て、子ができて孤独からは解放されます。が、そのうちに転勤辞令が出て、単身赴任となります。まぁ…試練は続くよどこまでも…ということですね。

この試練はさらに続きます。定年してブラブラしていると町内会の役員とか、ボランティアの声が懸ります。会議だというから出かけてみると、会して議せず、議して決せず…延々と四方山話が続きます。過去に記憶がないほど孤独になりますね(笑)

「そうか!これはいわゆる会議ではない。寄合なのだ、飲み会なのだ、とわかれば孤独から解放されて楽しくなりますが、会社人間というか、組織人は「やっちゃいられねぇ!」と飛び出して孤独になります。一度飛び出すと…復活が難しくなりますねぇ。奇人、変人扱いされて声が掛からなくなります。

官兵衛にとっては死ぬほど辛い一年間が始まりますが、それに耐えたのはすごい精神力だと感心します。我々が感じる孤独などと言うものは、まだまだ序の口なんでしょうね。

78、半兵衛には、官兵衛と共通しているものがあった。両人とも教養ある家に生まれ、乱世にしては珍しく儒学的な教養を身に着けた。人間が、どういう場合に何をすべきかという点で、功利的判断だけに頼るという世間の大方の武士たちとは、少し違っていた。その少し違っている点で、竹中半兵衛は官兵衛に対し、余人ではないとみていたし、官兵衛の倫理観を考えて彼が信長や秀吉を裏切るはずがないと思っていた。

これを「友情」などという言葉で表現したら軽すぎます。「同志」でもピンときません。

兄弟というか…官兵衛を自分の肉体の一部というか、同一化していたのだろうと思います。

半兵衛に功利主義の思いが皆無だったわけではありません。損得勘定を度外視すればそれこそ聖人君子ですが、それでは戦略など立てられません。

ただ、この時に半兵衛は結核で自分の死を悟っていました。死ぬにあたって、身内の利益のために死ぬか、それとも天下国家のために死ぬかという選択で、「正義」の方を取ったのでしょう。その意味では骨太の人物です。

半兵衛の捨て身ともいえる太っ腹で松寿丸、後の福岡50万石黒田長政は生き延びましたが、この時の経験が長政の豊臣嫌いに繋がっていったと、司馬遼は語ります。

松寿丸は後に黒田長政と名乗ってから、この関が原で戦うという運命を持つ。長政は関が原前夜において秀吉の豊臣家を見限った。なりゆきでそうしたのではなく、積極的に徳川のために働いて諸大名を東軍に引き寄せる工作をした。このことに長政の感情の根を見ることができる。彼は、秀吉に好意を持たなかった、いやむしろ悪意を持っていた。

世代が代われば価値観も変わりますが…、松寿丸・長政と秀吉との接点は少ないのです。秀吉の独裁的なところや、その走狗となっている石田三成、増田、長束などとは喧嘩ばかりしていますから、秀吉ファンにならなかったのは当然かもしれませんね。

ともかく、松寿丸は関が原の近くの竹中半兵衛の居城・菩提(ぼだい)山(さん)城にかくまわれます。

これは、この時代にあって、一種の奇跡でした。

79、半兵衛は、彼が補佐している秀吉の性格が、必ずしも、秀吉が演出しているような闊達(かったつ)な一面だけではなく、深部に嫉妬(しっと)心(しん)の強い性格を秘めていることに気づいていたし、その嫉妬心は半兵衛と官兵衛のみに向けられていることも知っている。半兵衛の見るところ、秀吉はおそらく今より以上に栄達するであろう。半兵衛にすれば、出来ればそれより前に身を引いて、この菩提山に隠れたい。

信長は村重の謀反に逆上しています。この人は論理よりも感情、左脳よりも右脳の能力の強かった人のようで芸術家タイプです。感情が先に立ちますから、官兵衛のことは調べもせず、裏切りと決めつけて、人質の松寿丸の処刑を決定してしまいます。

「処刑せよ」という通達を持った使者が、平井山の秀吉のもとに来ます。命令ですから逆らえませんが、秀吉が「承知」という前に半兵衛が「それがしが承った」と回答します。

このあたりが竹中半兵衛の真骨頂ですね。秀吉が了解してしまえば、そのことは後々官兵衛との確執になります。それをさせないように、秀吉より先に返事をしてしまい、自分の責任として背負い込みました。勿論、半兵衛は松寿丸を殺す気はありません。逃がす手立てがあったというわけではなく、自分の責任において自分の命と引き換えに幼い命を救うという覚悟の行動です。

半兵衛の、信長のやり方に対する抵抗でしょうね。言い換えれば…謀反の行動です。

また、こういう回答が通ったのも竹中半兵衛は秀吉の部下ではなく、信長直属の部下だったからです。織田本社から秀吉会社に派遣された出向社員の立場です。

80、信長は、この摂津攻略にあたって、微笑と憎悪を、白と黒ほどの鮮やかさで使い分けた。彼は高槻の高山右近と茨木の中川清秀には、微笑外交の限りを尽くした。
その一方で、摂津の人民に対しては過酷なまでの殺戮(さつりく)を以て臨んだ。

前号で触れた通り、荒木村重の謀反は信長にとって想定外の大事件です。逆上してしまいます。天下布武のため、反信長包囲網を打ち破るには何としてでも摂津の版図を守らなくてはなりません。なりふり構わず…手を打ちます。

まずは、村重の両翼ともいうべき高山右近と中川清秀の懐柔にかかります。

高山右近はキリシタンです。日本に入ってきたキリシタン・イエズス会というのは、キリスト教の中でもとりわけ戒律が厳しく、今風に言えばキリスト教原理主義というほどに「博愛」という観念に純粋なのです。信長はこれを逆手に取ります。味方に付けば布教を支持し、敵に回れば信徒を皆殺しにすると二者択一を迫ります。比叡山の例があります。長島一向一揆の前例があります。そして、目の前の石山本願寺の戦では皆殺しの場面が繰り返されています。飴と鞭といいますが、自分一人でなく信徒全員の、生きるか死ぬかという二者択一に逆らうわけにはいきません。逆らえば自殺行為で、キリシタンは自殺を固く禁じているのです。右近はやむなく降伏しました。

中川清秀には、徹底的に利で釣ります。「村重討伐後は摂津の旗頭にする」という契約書を示し、一方で、中川領周辺で大虐殺を始めます。

「僧俗男女、いといなく殺伐に斬り殺し、堂塔伽藍(がらん)、仏像経巻、残さず一宇一時に雲上の煙となし、須磨、一の谷辺りまで放火候」(信長公記)

これまた強烈な二者択一の迫り方ですねぇ。

中川清秀も降伏して荒木村重から離れます。伊丹・有岡城は孤立無援になりました。