乱に咲く花 24 生麦事件

文聞亭笑一

先週号も進行を遅らせたつもりですが、それでも池田屋事件まではいきませんでした。

NHK作者の意志を勘案すれば、主役である文の亭主;久坂玄瑞を殺してしまうのはもう少し先ということなのでしょう。久坂、高杉、桂という三人や、吉田稔麿、赤根武人といった松下村塾の塾生たちが死んでいく場面はもう少し先にしたいでしょうね。とりわけ、吉田稔麿の妹たちと文は幼馴染の親友ということになっていますから、愁嘆場も描かなくてはならないでしょう。

従って、先週少しふれた生麦事件についてページを割いてみます。この事件をきっかけにして薩摩藩は攘夷から開国へと大転換をしています。そのことが長州藩を孤立に追い込み、禁門の変で長州を賊徒に追い込みました。恨み骨髄でしょう。蛤御門の変では「薩賊、會奸」という旗を掲げますが「国賊薩摩」「奸物會津」という言葉の短縮です。

突如、開国派、佐幕派に寝返った薩摩藩

孝明天皇に取り入って、朝廷を操る会津藩

・・・という意味ですが、七卿を利用して朝廷を操っていたのは自分たちだったのですから、

「自分たちも奸物である」と天に唾するような話です。こういうあたりも異常心理でしょうね。自分たちのすることはすべて正しいが、敵のすることはすべて悪事であると言っているわけで、こうなると…韓国の大統領さんと同じレベルです。昨日、マスコミで「日韓の国民感情調査」の発表がありましたが、嫌韓、反日ともに過去最高になっています。「日本による植民地支配の恨み」というのが根底にありますから、謝って済む問題ではありません。謝れば謝っただけ、更に感情が高揚します。「まとめての謝罪では許さん。個別に謝れ。言葉だけでは足らん、賠償や領土も韓国の言う通りにしろ」となり、挙句の果ては「アジア代表として、G7に出席する権利を譲れ」くらいは言ってくるでしょうね。とどまる所はないでしょう。

こういう感情論の種をまいてしまったのが宮沢、村山、河野などの過去の政治家ですが、更に民主党政権下での小沢訪韓団です。「在留韓国人に地方参政権を与える」という空手形を切って、期待をさせてしまいました。それが実現していればスコットランドの住民投票のように、島一つ独立してしまうこともありえますからねぇ。

ともかく、松陰の唱えた「狂気」と「革命」は危険です。英雄視するのは危険です。

私の高校の同級生で、関東に在住し、カラオケ好きのものが5人います。2か月に一度は集まって、昼飯を一緒しカラオケを歌って楽しみますが、今月は「乱に咲く花」の舞台の一つでもある生麦で開催しました。ここにはビール会社の工場があって、工場見学と無料の試飲ができます。

「ただ酒を飲んでやろう」というのがホンネで、『横浜育ち』という6%の新製品を3杯飲んできました。コクがあって…美味かったですね。

タテマエは「明治維新の事件のあった場所を実地検分してみよう」とにわか歴史家気取りです。

勿論、参加者それぞれに本音と建前の比率は異なります。ホンネ100%だったのは私くらいなものでしょうか。

その時に作ったメモを以下に添付して、今週号の記事に換えます。

近在の方はホンネ、タテマエ、いずれかで一度訪ねてみたらいかがでしょうか。

生麦事件メモ

1、発生の背景

・事件は島津久光が朝廷の勅使を奉じて江戸幕府に攘夷を要求すべく出府したのが始まり

           大原重徳、三条実美

・薩摩藩による一種の軍事デモンストレーションでもあった

・攘夷の約束まではとれなかったが、一ツ橋慶喜の将軍後見職就任、松平春嶽の政治総裁就任を約束させて、意気揚々と帰途につくところである。

・時は文久二年(1862)8月21日である

松本藩士・伊藤軍兵衛による第二次東禅寺事件(英兵2名斬殺)の、3か月後である。

2、幕府の諸外国への連絡、要請

  ・「夷人は見るだけでも汚らわしい」という勅使の要請を受けて、老中から神奈川奉行を通じ米、蘭、英、仏公使館に8月22日の関外への、外出を控える旨の要請がなされている。

・勅使の先払いである薩摩藩の、前日の大名行列に関しては、通達されていない。

3、英国商人の事情

・事件に遭遇したのは英国商人マーシャルとその義妹・マーガレット、それにマーシャルの商売仲間のクラークとリチャードソンの四人。

・マーガレットが乗馬好きで、遠乗りに出たがっていた。マーシャルは勅使のことを知っていたから時期を待とうとしたが、クラークとリチャードソンが煽り立てて21日に決定。

・この商人たちは上海で中国人を虫けら同然に扱ってきた。

日本人に対しても、舐めきっていた。…特にリチャードソンは横柄であった。

4、当日の大名行列

・三田の薩摩藩邸出発…当日は神奈川宿に宿泊予定

行列の総延長は約1km…示威行動のために連れて来た藩士の数が多く、常よりも多人数

・品川宿にて休憩

・隊列を整える。先導・・・海江田武次

駕籠脇には伊東祐之(初代連合艦隊司令)、黒田清隆(首相)、松方正義(首相)など

殿(しんがり)には一番家老・小松帯刀、大久保一蔵(利通)など

先導、本隊(駕籠脇)、殿の間隔は50mほど空いていたと思われる。

・大森にて休憩

・多摩川を渡り川崎宿にて昼食

・鶴見村にて米国人外交官ヴァン・リードに出会う。

彼は下馬し、馬を畑に引き入れ、片ひざを折って敬礼して行列をやり過ごした

この様子を見て、先導の海江田は警戒を緩める

・次の休憩予定地が生麦村・藤屋伝七の茶店

余談だが、生麦村の由来は東海道建設の折に、この地の麦が実っていなかったのに、全て刈り取ってしまった(青田刈り)ことによる。

家康の江戸入り以前の東海道は、現在の中原街道である(足柄峠越え)

(現在の東名高速道のルートと思えばよい)

この時の島津久光の大名行列は下図の様だったと想定される。これは本のブックカバーから引用した。

駕籠脇の本隊だけの絵である。

これより先行して先導、遅れて殿(しんがり)が続く。

総延長1kmに及ぶ。

沿道で待っていたら30分ほどかかったかもしれない。慣れている日本人旅行者は、脇道を抜けるか、海岸に出て行き過ぎるのを待った。土下座して待っていたら、相当疲れる。

・道幅は約7m…本隊・駕籠脇は道一杯に広がる。

 生麦は海岸と右手の山が迫っていて、平地部が狭い。今でも京急、JR3路線,国道15号  が並行して通過する。開かずの踏切の名所でもある。

5、遭遇

・リチャードソン、マーガレットを先頭に、二列で、神奈川宿を出発し六郷土手に向かう

・先導と生麦村で遭遇・・・乗馬のまま道の脇に避けてやり過ごす

 先導は駕籠がない分だけ行列が細い。なんとか事を起さずに済んだが、薩摩藩士たちは「無礼者め」と憤慨。しかし先代島津斉彬の遺訓「夷人と争うな」を受けて…我慢。

・4人は先導をやり過ごし、道の中央を進む。道一杯に広がって進む本隊と遭遇

・先導をやり過ごした隊形で避けようとしたが、無理であった。

本隊の先触れから「帰れ」と怒鳴られ、刀で脅され、馬がパニックになる。

リチャードソン、マーガレットの馬が暴れて、行列の先頭に突っ込み、数名の藩士を蹄に掛ける

・「無礼者」奈良原喜衛門の抜き打ちの一閃で、リチャードソンは腹部に致命傷を負う。

マーガレットは髪を切られ、軽傷。狂乱して神奈川に向かって逃げる。

・ことを知った先導・久木村治休が駆け戻り、逃げて来た4人を次々に斬る

女には手出しせず、クラークとマーシャルは重傷、リチャードソンはさらに傷を受けて落馬し、海江田にとどめを刺されて即死。

・傷を負った二人は、神奈川宿の米国公使館に逃げ込み保護される。

・マーガレットはそのまま横浜の関内まで逃げる。

・・・この辺り、生麦から神奈川宿にかけての狭さは、広重の東海道五十三次図でもわかる。

神奈川宿はかなりの坂道の上にあった。

海岸線は切り立った崖の下にある。

ともかく、街道は狭かったのだ。

逃げ場がない。避けようがない。

生麦の狭さが戦争「薩英戦争」を引き起こしてしまった。