次郎坊伝 24 保守と革新

文聞亭笑一

今週のドラマには、少し戦国時代の動きが出てきます。

今川家の事情、今川と同盟を結ぶ武田、北条の動きや、織田と徳川の関係など歴史のターニングポイントに絡む話があります。井伊谷のミクロな話から、日本を俯瞰した話になりますが、その辺をどこまで映像で説明するのか? 良く分かりませんので、お節介に全体の動きをおさらいしてみます。

今川の事情

桶狭間で当主・義元が討ち死にし、義元を支えていた幾人かの重要閣僚達も討ち死にしました。

また、義元を守り切れなかったことで殉死、自決、あるいは詰め腹を切らされた者たちもいます。

その意味では義元体制から、氏真体制に人事の若返りがなされたとも言えます。これは決して悪いことではなく、現代の社長交代時などでも良くある話で、旧体制の上に社長の首だけ挿げ替えるよりも改革には適しています。

しかし、今川家の場合は改革の動きが全くなく、旧体制の維持に向かいますから、いたるところで前任者と比較され、ボロが出ます。その指摘や批判に腹を立てて、強権発動的なことを繰り返せば、社内はガタガタになりますよね。この時代はまだ「忠義」という概念はありませんが、「信用」という概念はあります。トップが信を失っていくプロセス・・・悪魔のサイクルにはまっていきます。

「氏真は凡庸であった」というのが歴史上の定説ですが、決して頭が悪い男ではなかったはずです。

幼いころから雪斎の薫陶を受け、漢籍(四書五経)や孫子、平安文学や法律など、知識は豊富な男だったようです。現代でいえば東大、京大卒業並の知識人に入るでしょう。ただ、義元、寿桂尼、雪斎が蝶よ花よと大切に育てましたから、現場体験が全くなかったと思われます。

武家の長になるのであれば、成人後は速やかに初陣を果たさなくてはなりませんが、どうもそれをした痕跡がありません。領内の経済に関しても、帳簿を繰って確認したという形跡も見当たりません。眉を剃り、鉄漿(おはぐろ)を入れていたようですから公家風を真似ていたようです。つまり、現場の汚れ事には一切 手を付けず、部下からの報告に「よきに計らえ」を繰り返していたのでしょう。

こういうマネージメントをする場合は「報告者の能力」がその会社の能力のバロメータになります。

氏真の側近は、少年時代からの仲間、家門の高い者たちが多かったようですから、彼らもまた現場知らず、世間知らずだったでしょうね。経営能力としては義元時代から格段に低下したと思われます。

氏真は「甲斐への塩止め」を始めます。

戦略的には、現代の北朝鮮に対し世界各国が行っている「経済制裁」と同じことですから、うまく機能すれば…封鎖が徹底されれば甲斐の武田にはかなり堪えます。しかし、北朝鮮の場合も中国やロシアが封鎖には程遠い対応をするように、周りの諸国の協力がなければ何の効果もあげません。

今川氏真が仕掛けた「武田領・経済封鎖作戦」は全くの尻抜けでした。

越後の上杉景虎(謙信)は「われ関せず」と全く見向きもしません。敵に塩を贈ったという美談に聞こえますが、贈ったのではなく、経済封鎖に協力しなかったというだけのことです。

織田信長、徳川家康も「聞いてない」という態度ですから、尻抜けです。

協力したのは関東の北条だけですが、その北条とて塩はそれほど多く産していたわけではありません。結論から言えば、甲斐の国(山梨県)への海産物の物流ルートが、糸魚川ルート(千国(ちくに)街道)木曽ルート(中仙道)、伊那ルート(三州街道)に変わっただけです。ほとんど困っていません。

むしろ、困ったのは今川領の商人たちで、重要な輸出先である武田領という市場を失いました。甲斐、信濃は海のない県ですから塩ばかりでなく海産物はかなり高価に売れていたはずです。その意味では、非常に付加価値の高いビジネスであったと思います。

輸出だけではありません。輸入もなくなります。

当時の衣服の原料は麻と絹が中心です。木綿もありましたが、まだ西日本中心の栽培で、一般化していません。庶民の衣類の殆どは麻でした。中部地方の麻の産地は信越方面です。絹(生糸)の産地も信濃が多かったですね。ですから、繊維製品の原材料が入ってこなくなりました。

そればかりではありません。衣食住の「住」の材料である良質な木材も、富士川ルートの筏(いかだ)が流れ下ってきません。勿論、燃料などの必需品は大井川、安倍川などから調達できますが、富士川沿線の東駿河地方は困ります。

経済封鎖で最も困ってしまったのは今川領の商人たちや、匠たちでした。

衣食住が不足したら、当然ですが闇市場が活性化します。濡れ手に粟とばかり密輸が増えます。この取り締まりはできませんね。現代ですら中国ロシアから北朝鮮に向けての闇ルートは健在です。北のデブ将軍はそれほど困っておりません。

商人が困る、利益が上がらないと、今川の税収は目減りしていきます。そうなれば税率を上げるしかありません。増税は・・・いつの時代でも庶民に嫌われます。今川人気が落ちます。とりわけ田畑を持たない商工民は多量に流出を始めますね。税収が減る、人が減る…増税、強権発動…悪魔のサイクル、じり貧サイクルに入ります。

戦国の二大政治勢力 <守旧派>と<革新派>

この際ですから、井伊や今川を取り巻く永禄11年の東日本(不破の関、鈴鹿の関より東)を俯瞰してみます。

室町幕府体制というのは頼朝や家康が作った幕府とはかなり異なります。鎌倉将軍や江戸の将軍たちは全国を自らの傘下に従えて唯一の政治組織で運営しますが、足利将軍家は日本を東西に分けて、京都の将軍家は近畿以西の西日本を、鎌倉の関東公方が東日本を統治するという二元体制です。勿論、どちらも足利一門がトップに就きますが、代を重ねるごとに疎遠になり、統一国家と言えない状態になってきます。これが・・・そもそも戦国の混乱を引き起こす遠因でもありました。

関東公方(副将軍)の下に関東管領・上杉家という総理大臣のような政治責任者がいて、その下に国(駿河、遠江など)を治める守護大名がいます。駿河の場合は今川家、三河の場合は吉良家ですね。

甲斐は武田、信濃は小笠原、尾張は斯波、美濃は土岐(明智光秀のルーツ)といった面々です。この中でも吉良、今川は家格が高く、京の将軍家に後嗣がなければ、まず吉良家から、または今川からという序列でした。江戸時代の御三家(紀伊・尾張・水戸)のような位置づけです。

さらにその下に「郡」を治める地頭がいます。これは大名とは呼ばず地方豪族という位置づけです。

直虎の井伊は井伊谷(現在の引佐郡)を担当するその地頭職です。「泣く子と地頭には勝てぬ」というあの地頭で、現代の市長・町長のような位置づけです。つまり、徴税権を持ちます。

税を取る代わりに、領内の治安に関して責任を持ちます。責任を果たせなければ税を払わない…

つまり、領土を保ち得ません。これが基本的に領主と住民の暗黙の契約です。

さて本題。

この足利幕府の体制を守ろうとするのが保守派、既得権益擁護派です。

今川は当然、足利御三家の一員ですから保守本流です。関東の上杉も当然のことながら保守本流です。

甲斐の武田、越前の朝倉、越後の長尾(謙信)も、幕府擁護派そうです。

ところが、その保守派を下剋上で破って台頭してきた一団があります。

美濃の斎藤道三、相模の北条早雲、尾張の織田信長、そして三河の徳川家康もこのグループになります。彼らは、のし上がっていったプロセスは違いますが、幕府の権威を無視して実力で国盗り物語をしてきた連中です。「足利体制、くそくらえ」という新興勢力です。

永禄11年の段階では信長が尾張、美濃を手中に入れています。

関東では北条が上杉を辺境に追い、相模、武蔵、上総を従えています。逃げ出した上杉が名跡を長尾景虎(謙信)に譲り、謙信は守護名跡の「長尾」を捨てて、管領職(一段上の上杉)を名乗ります。謙信が執拗に関東に遠征するのは、「関東を譲られた」という大義名分と、義務感からですね。

余談になりますが上杉謙信の関東侵入のことを「越山」と言います。田中角栄の越山会…元は、謙信の関東討ち入りに由来します。謙信は十数回、越山を繰り返します。

小田原北条家の創業者は初代の北条早雲です。が、早雲は一度も北条を名乗ってはいません。従来から、小説などでは伊勢出身の素浪人だ・・・となっていますが、そんなことはありません。備前に領地を持つ、れっきとした中央政権の高級官僚です。妹の嫁ぎ先、今川家で家督争いがあるというので、幕府から駿河に出向を命じられ、監査役として駿河に天下りしました。今川家の執行役員として妹の子を領主に据え、領内の政治を取り仕切っています。当時の名は伊勢新九郎、室町幕府・官房長官の家柄です。

今川が落ち着いて、新九郎(早雲)は暇になります。自分の領地として、今川からもらったのは駿東郡、今の富士市から沼津の辺りです。隣の伊豆には鎌倉公方が小山派と堀越派に分かれた堀越公方がいます。この公方派が再分裂して家督争いをしているのに乗じて、伊豆の国を乗っ取ってしまいました。

下剋上と言えばそうに違いありませんが、さすが早雲です。元・京幕府の役人であった人脈を生かし、正当化してしまいますね。

次は、相模の上杉家に援軍として参加し、次第に多数派工作を進め、相模の上杉(扇谷上杉)を武蔵に追いだします。かくして相模を手に入れて、伊豆・相模の大名になってしまいました。そこで打ちだした人気施策が「減税」です。五公五民を四公六民に一気に値下げし、上杉体制を足元から揺さぶります。

この話を続ける紙面がありませんので、またの機会にしますが、要するに北条家は今川家の分家です。その後、今川はパッとしませんでしたが、北条は二代目・氏綱、三代目氏康と傑物が続き、関八州にまで勢力を伸ばします。これは初代早雲の革新的税制が、民衆の絶大な支持を受けたからに他なりません。

本家の今川と、分家の北条が敵対関係になったのは今川義元が「駿河の国は俺のもの」と、氏綱が千葉方面で戦っている隙に、駿東郡(富士市~沼津)を空き巣泥棒したのがきっかけです。家督争い(花倉の乱)の結果、義元が領主になれたのも北条氏綱の軍事支援のお陰だったのに、完全な裏切り行為でした。ここから両者の関係は冷え込みます。

権威主義の今川と革新的な北条…いずれはたもとを分かつ命運でしたね。

革新派の旗手・信長と、権威の象徴・足利義昭が手切れをするのも当然の成り行きです。

保守と革新、人間社会の永遠のテーマですが、正解はないでしょうね。

宗教問題と合わせて、今後とも争いがなくなる見込みはないと思います。