明智光秀 第43回 火もまた涼し

文聞亭笑一

信長の晩年は・・・と、書き始めましたが、信長本人は晩年などと思ってはいません。

「織田王国」の建設に向けて緒に就いたばかりです。

が…「信長」という為政者と、それを支える者たちの信頼関係、心情的距離が離れていきます。

政権構想、国家のあり方ビジョンの説明不足といえばそれまでですが、信長の意図するところを伝える官房長官、広報官が存在しませんでした。

敢えて言えば秘書室長とも言うべき森蘭丸がその役割を担うはずですが…、そのような働きをしたと記した歴史書も、小説もありません。

司馬遼太郎や、それに類する歴史小説、ドラマでは、信長は部下の報告に「…で、あるか」としか発言しません。その発音の音色で「Yes」「No」を判断するというストーリでした。

信長がそれほど寡黙であったとは思えませんが、雑談や、形式的な挨拶を嫌ったことは事実だったと思います、単刀直入に「まず、結論ありき」で、言い訳の類はタブーだったでしょうね。

その点では、現代の企業における「報連相」マナーと同様で、回りくどい、言い訳じみた報告は「時間の無駄」と切って捨てられたと思います。

新進、成長企業のやり手経営者・・・現代にも信長的方々が活躍されておられます。

征夷大将軍

先週の放送では、光秀が鞆の浦にいる足利義昭を訪ね、京に戻ることを説得しようとして失敗しますが、光秀自身が鞆の浦まで旅することはありえないと思います。

瀬戸内海の制海権は毛利の、村上水軍が握っていますから、その警戒網を突破できたとは思えません。

義昭は、信長が刺客、毒殺…あらゆる手を使って自分を暗殺しに来ることを警戒していましたから、たとえ信頼している光秀が訪ねてきたとしても、決して会わなかったと思います。

一方で、義昭が「鞆幕府」を標榜し、将軍職を手放さない限り、朝廷が征夷大将軍を信長に宣下することはありません。そして朝廷、正親町天皇は、そのことを切り札に信長に対抗します。

一方の信長は征夷大将軍に固執します。右大臣も、左大臣も、太政大臣も蹴飛ばします。

なぜか?「大臣」というのは公家の官位です。一代限りの役割です。しかも、公家の最高位である関白は五摂家しか就任できません。信長が関白になるためには公家になるしかありません。

そうなると「天下布武」の大方針・「武家による政治」と乖離してきます。朝廷的儀礼にとりこまれてしまうリスクと共に、支配者を織田家の世襲とすることができません。

世代交代の都度、朝廷の政治工作に翻弄されて、組織の弱体化を招きます。

公家とは、大化の改新の中臣鎌足以来、朝廷と共に権力を握ってきた藤原氏です。

「信長の軍師」を書いた小説家の岩村忍は 公家集団とは皇位を死守するために存在している。

それ以外、公家の存在価値はない。皇位がなければ公家は存在しない。

と言いきります。

確かに・・・その要素はありますね。

戦後になって、ようやく、皇室は公家・藤原一族から解放されたと言えるかもしれません。

教養人というか、京の文化に憧れの強い光秀は、知らず知らずに、公家的風土に取り込まれていきます。それが信長との距離を広げていきます。

心頭滅却すれば 火もまた涼し

信長による東国支配の試金石・武田征伐が始まります。

畿内では、長年信長に抵抗してきた本願寺が、朝廷による和睦勧告を受け入れて、大阪・石山から退去しました。

中国戦線は秀吉軍が備中松山まで攻め込み、城兵を水攻めにしています。

北陸道は、軍神、毘沙門天と言われた上杉謙信が亡くなり、後継者争いで混乱しています。

5年前に、長篠・設楽が原で騎馬軍団を壊滅に追いやった武田軍団を叩くときがやってきました。

有名な鉄砲による長篠の戦のあと、信長は武田家の自滅を待っていました。「短気」と思われる信長ですが、武田攻略はじっくりと時間をかけました。

そのあおりで、妻と、期待していた長男を失ったのが徳川家康です。家康の、信長への不信感はかなり強烈だったと思います。

それが、武田滅亡後の信長の凱旋接待に全力投球した動機でしょう。一点の疑惑も抱かせない、忠実な臣下としての演技に腐心したはずです。

武田勝頼は、攻められる前に敗けていました。

身内の木曽義正や穴山梅雪が寝返っています。

その上、逃げる方角も「上州へ」という真田の進言を蹴って、大月の小山田を頼り、裏切られます。3万の軍が3千に減り、3百になって…天目山の露と消えました。

軍記物としては、これでおしまいなのですが、「本能寺の動機」という点では恵林寺での事件が注目されています。

信長が、恵林寺に逃げ込んだ荒木村重の部下を差し出すように要求し、住職の快川国師がこれを拒否、それに怒った信長が国師以下の僧侶や、寺に残っていた者たちを三門に押し込め焼き殺したという事件です。

快川禅師・・・禅宗、臨済宗妙心寺派の高僧で、正親町天皇から「国師」の号を拝領しています。

要するに天皇の師ということで、宗教界のトップという位置です。

また、快川禅師は美濃の生まれでもあり、土岐家の教育者でもありました。光秀も快川禅師の弟子の一人であり、光秀の喧嘩相手・稲葉一鉄は快川禅師の元では光秀の兄弟子に当たります。

心頭滅却すれば 火もまた涼し  快川禅師の辞世です

信長はなぜ、そこまでやったか? 快川禅師を焼き殺したか。 疑問が残ります。

国師、天皇や仏門の権威に対し鉄槌を加える・・・叡山焼き討ちと同じ示威策

武田をやっつけた! という高揚感からイケイケ ドンドン お祭り気分、火祭り

この事件で光秀のショックは大きかったと思います。信長への信頼や期待感が大きく揺すぶられたと思います。これが引き金になって、信長との距離が更に開いていったように思います。

常識的教養人の光秀にとって、天皇や先学を軽視するという態度は理解しがたかったでしょう。

一方の信長は、京でルイス・フロイスやオルガンチーノなどの切支丹宣教師からヨーロッパ王国の政治形態の説明を受け、西欧的王政を持ち込む構想も描いています。

つまり,天皇は法皇として宗教界のトップにする …政治に口出し無用

信長は国王となって政治権力の全権を握る…独裁者

信長の臣下で、この構想についていける者はいなかったでしょうね。

ただ、信長にとっては「将軍にしてくれないなら・・・南蛮の王様になってやる」といった朝廷への威嚇だったかもしれません。本気でやる気はなかったようにも思います。

天皇、朝廷をとるか、それとも信長をとるか ・・・光秀の悩みは二者択一になってきます。