どうなる家康 第17回 家康に過ぎたるもの

作 文聞亭笑一

いよいよ信玄が西上の軍旅に発ちます。家康にとって最大のピンチで「どうする」「どうなる」の手に汗握る場面が近づいてきました。

テレビドラマでは源三郎脱出の場面を描いていましたが、ちょっと説明不足か? と感じましたので補足します。

松平(久松)源三郎

家康の三人の弟(異父兄弟)の2番目、真ん中の弟です。

家康の母・於大の方は織田と今川のせめぎ合いの犠牲となって、家康を生んだ後に離縁させられ、久松俊勝と再婚します。

そして生まれた3兄弟・・・家康にとって兄弟はこの三人だけです。

桶狭間の前後に兄弟として対面し、松平姓を与え、兄弟はそれを名乗ります。

以前にも書きましたが、家康以前の松平家と違って親愛の情というか、家康の思い入れが強く、江戸幕府創設以後の親藩の中でも久松家は特別な存在でした。

久松松平と言えば伊予松山15万石が有名ですが、これは源三郎の弟(末子)の家系です。

源三郎は家康が駿府にいた時代に久能城の城主になりましたが35才で早世し、子孫は幕府設立後に下総・多古藩の大名になっています。

ドラマでは「武田への人質」として描かれましたが、実際は1563年に今川への人質として送られています。

その5年後、武田軍が駿府に侵攻した際に、今川家の家臣・三浦某が武田に寝返る手土産として、源三郎と酒井忠次の娘・おふうを信玄に献上したと記録にあります。

今川への人質が、武田の手に渡ってしまった・・・。

なんとなく、今川に行くはずが織田の人質になってしまった家康に似ています。

脱出の際に凍傷で足の指を失った話と、人質時代に武田軍に鍛えられたという話・・・合いませんね。

厳しく鍛えられていたら寒さに慣れていたはずですから、重症の凍傷にはならないでしょう。

実際に救出した半蔵達は凍傷に罹っていません。

軟禁状態で運動不足、閉じ込められていたとみるべきでしょうね。

信玄西上の動機

今回の脚本は日本全体の動きを説明しませんが、信長と将軍義昭の仲は冷え切って、義昭から全国の有力大名や本願寺、比叡山などの寺社勢力へ「信長を討て」の御内書が乱発されていました。

信長包囲網は西の毛利、長宗我部、そして南に大阪石山の本願寺がいます。

北は浅井・朝倉と、それに手を組んだ比叡山が信長の背後を狙います。

信玄にとっては信長を討つチャンスなのですが、上杉と北条が連合を組んで敵対しますから、うかつに領国を留守にできません。

守りをおいての西上では兵力が半分になります。

事実、何度も遠江侵略戦を仕掛けるのですが、その都度に北条から背後を突かれて撤退しています。

が、ついにチャンスがやってきました。

信長が包囲網の各個撃破一貫として叡山の焼き討ちという暴挙をやりました。

太閤記などの戦国物語では、この暴挙を「正義の粛正」「悪いのは腐敗した宗教」などと書きますが、比叡山焼き討ちの惨劇これは人間のやることではありません。

悪魔の所行です。戦争・・・やってはいけませんが、戦争は戦闘員がすることで、一般大衆を巻き込んではいけません。

とりわけ女、子供を巻き込んではいけません。

こう書くと・・・「ジェンダー平等に反する」とイチャモンをつける奴がいますが、視野の狭い屁理屈だと思いまね。

男と女、雄と雌、生物学の基本を学び直した方が良いでしょう。

プーチンのウクライナ侵攻、旧日本軍の満州侵略、米軍の無差別爆撃と原爆投下・・・

これは絶対悪です。やってはいけない悪魔の所行です。

信長の比叡山焼き討ち・・・絶対悪ですね。

美化してはいけません。

無差別殺人です。

叡山焼き討ちがあった!!・・・この情報で・・・日本中がアンチ信長に動きました。

北条氏政が上杉謙信との同盟を破棄して、武田との同盟復活を選びます。

氏政としては武田の関心を近畿に向けて、その間に関東を平定しようとしたのでしょう。

そして、本願寺は加賀の一向一揆を扇動して上杉の動きを牽制します。

越中まで不安定となって謙信は信玄の動きを止めるゆとりがなくなりました。

浅井・朝倉、本願寺、上杉、武田、北条、毛利、長宗我部・・・

こういう列強を使嗾して信長包囲網を形成する・・・これをやった足利義昭という政治家は凄いと思いますね。

将軍という権威・・・ただそれだけで列強を動かしてしまいました。

現代ならローマ法王でしょうか。

日本国内なら天皇陛下でしょうか。

前哨戦

信玄の西上作戦は準備周到です。まずは信長の同盟者・家康を脅します。

信玄にすれば、家康などは信長を倒せば枯れてしまう勢力で、まともに戦う相手ではないという認識だったのでしょう。

「侵略すること火の如く」東海地方に侵入してきました。

武田軍は三方から織田・徳川の領土に侵攻してきます。

先鋒軍は三州街道を岡崎に向い、浜松の後方を脅かします。

本隊は遠州へ進軍し、東海道を正面から進軍してきます。

そして遊撃隊は木曽から美濃に出撃し、織田と徳川の間に楔を打ち込みます。

家康は、最終的には三方原で信玄と戦闘して大敗を喫しますが、信玄の西上を食い止めようと事前に遠州へと出撃しています。

本多平八郎を先鋒に4千の兵で2万5千の武田本隊を攪乱しようと試みますが、「疾きこと風の如く」信玄に先を越され、先制され、撤退するしかありませんでした。

作戦よりも、情報力に格段の差がありました。

この撤退戦で大活躍したのが本多平八郎でした。

それを評価して信玄は高札を残します。

「家康に 過ぎたるものの 二つあり 唐の兜に 本多平八」

唐の兜とは、当時珍しくて高価だったヤクの毛で飾った兜を家康が持っていたからです。

信玄自慢の「諏訪法性の兜」もヤクの毛で飾ってありましたから「小僧め、片腹痛い」という思いがあったのかもしれません。

ただ・・・、この歌は後世の創作の臭いがしますね。敵を褒める高札など立てません。