紫が光る 第20回 六十余州

作 文聞亭笑一

先週はすこし、いや・・・かなり先走ってしまいました。

式部父娘の越前行きなどを書いてしまいましたが、それは今週か、それとも来週の場面でしたね。

先週は道長と伊周との政争が中心でした。

そんな中で偶発的に起きたのが長徳の変です。

恋人を奪われた・・・と勘違いした兄の伊周、ならばその相手を脅してやろうと実力行使に出た弟の隆家、兄弟の仲の良さが裏目に出ました。

相手が上皇でなければ「位打ち」と、内大臣、中納言の権威を笠に攻撃、脅しを正当化できるのですが・・・相手が悪すぎました。

天皇家に向かって弓を引いた・・・という事件ですから、反逆罪です。

1月16日 事件が起きました。花山法皇に向けて矢が放たれ、法皇の従者が殺害される

2月 5日 伊周が自宅に精兵を集めているとの噂が流れ、検非違使による家宅捜索

2月11日 一条天皇から伊周の言動、行動への不信感、捜索指示

3月28日 伊周が女院・詮子、右大臣・道長への呪詛をしたとして告訴される

4月24日 除目・・・伊周は太宰府に左遷、隆家は出雲守に左遷

5月 1日 中宮・定子 兄たちの責任を取って出家

この一連の流れは一条天皇が直接指示していた・・・と、実資の日記(小右記)にも道長の日記(御堂関白記)にも載っています。

道長は「我関せず」「被害者」の立場を演出しています。

いずれにせよ、事件は中関白家のドチョンボで、自滅でもありました。

このことで道長のライバルが消え、政権が安定していきます。

定子と一条天皇

伊周、隆家兄弟が左遷されたのは上皇狙撃事件だけではありません。罪状は3点でした。

①上皇を狙撃

②女院を呪詛

③天皇しか出来ない呪いで道長を呪詛

伊周にとって、上皇への狙撃は偶発事故でしたが、その後の処理を間違えました。

謝る、謹慎するならまだしも、誰かのせいにして開き直り、呪詛を疑われるような態度がますます疑いを深めました。

わざわざ敵を作り、増やしてしまいます。

①だけの問題なら、妹の定子のコネで天皇の温情にすがり、1ランク降格程度で済んだかも知れませんが、ジタバタしすぎました。

自分たちの立場どころか、妹の中宮・定子まで巻き込んでしまいました。

若さでしょうか、経験不足でしょうか、ボンボンの世間知らずでしょうか・・・

現代でもよく似た事件が起きます。

大相撲の宮城野部屋ですが、隠蔽、言訳などを含め、組織倫理を無視するような白鵬の態度が協会の逆鱗に触れました。

伊周も白鵬も・・・思い上がりです。

何よりも伊周には相談相手がいなかったのが致命的です。

信頼できる先輩も、友人も、部下も・・・誰もいない裸の王様でした。

更に・・・伊周は左遷された太宰府にも赴任しません。

渋々と都落ちし、播磨まで行き、そこで腰を落ち着けます。

伊周が源氏物語の「光源氏」のモデルの一人を言われる所以でもありますが、光源氏は罪を得て明石に隠遁します。

そこで明石の君とのロマンスがあります。

紫式部が誰を、何処の、いつの事件をモデルに世界初の長編小説「源氏物語」を書いたのかはわかりませんが、伊周や、道長がモデルになっているのは間違いないでしょうし、源氏というからには天皇家の皇子・源家がモデルですね。

源高明・・・とも言われます。

中宮の定子は、形の上では出家しましたが、12月16日に皇女を出産しています。

十月十日を引き算すると、兄たちに家宅捜索の入った頃に皇女の生を授かったことになります。

出家は形だけで定子と一条天皇のラブラブは続いていましたね。

六十余州

まひろの父・為時は漢籍に優れていたため、宋人との交渉役として期待され、越前守という要職に抜擢されます。

越前・・・現在の福井県北部ですが、平安期の上国の一つです。

平安期の地方単位は68州とも言われますが、現在の都道府県とは随分と異なります。

まず、北海道は・・・ありません。

沖縄もありません。

東北は・・・福島以北は「陸奥」の一つです。

その代わりに近畿や西国は細かに分かれますし、島は国、州として独立していました。

壱岐、隠岐、対馬、佐渡、淡路などの島が、陸奥と同格の下国です。

平安期から地方・国はその経済規模や政治的重要性から上、中、下に格付けされていました。

とりわけ政治的、軍事的に重要な国は朝廷の直轄領として親王が国守を務めます。

蝦夷への抑え、という意味合いでしょうか。

関東に三国あります。常陸(茨城県)、上総(千葉県南部)上野(群馬県)この3国には守(県知事)は任命されません。

親王の直轄領で、その代理で「介」が置かれます。

介・・・次官です。

次官ですが、実質上はトップ、知事です。

吉良上野介、小栗上野介や、鎌倉幕府創業に貢献した上総介など、国主並みの官位なのです。

余談ですが、それを知らずに大恥を搔いたのが織田信長でした。

信長が家督を継いだ頃は、戦国武将が勝手に官位を自称していました。

信長は何が気に入ったのか「織田上総守」を名乗りました。

・・・が、これが大失敗でした。

「上総守」という官職は古今東西存在しません。

上総なら「上総介」です。

信長は父親譲りの尊皇家でしたから、朝廷や公家にはせっせと献金していたのですが、公家達からは「世間知らずの田舎者」「うつけ者」と馬鹿にされます。

このことが・・・信長が朝廷や公家を嫌った遠因になったとも言われます。

天下布武の後も信長は徹底的に官位を辞退します。

公家の拠り所とする位階制度、律令制度を無視します。

断り切れずに受けても、数日後に辞任します。

要するに官位を否定していました。

そして・・・その結果、「位階」を金科玉条とする公家が仕組んだ陰謀に依って、本能寺で暗殺されました。

「本能寺の変」は主犯が前関白・近衛前久、実行犯・明智光秀 ・・・だと思っています(笑) 

オッと、大脱線! 平安時代の話です。

マスコミが毎日毎日「那須殺人事件」の共犯、共謀、凶暴事件を報道しますので主犯、共犯、実行犯などの組織犯罪の雰囲気に流されています。

日本人も悪くなりましたね。

金のためなら人殺しを平気でする世の中になりました。

こういうことはヤクザの専売だったのですが、ヤクザ以前のチンピラ、それに出稼ぎ外国人が倫理破壊をしています。

日本の倫理観・・・かなり崩れてきました。

宗教界は金儲けに走って頼りになりませんので、我々普通の爺婆が「成らぬ事は成らぬ」と声を上げるしかありません。