水の如く 21 藤の花

文聞亭笑一

身動きもままならぬ牢に閉じ込められてしまった官兵衛はまさにダルマです。達磨大師は面壁3年などと言いますが、官兵衛の面壁も1年を越えてきました。達磨大師同様に、なにがしかの精神活動を続けていない限り、神経がもちませんね。

官兵衛の孤独を支えたものは何だったのか。何となく、子供の頃に母親から仕込まれた文芸の道、和歌や物語などの素養ではなかったかと思います。人間は孤独になると、その環境から抜け出そうと心の葛藤を始めます。が、環境が変わらないと諦めて心が萎えてしまうか、それとも考えすぎて脳回路がグチャグチャに混線し、精神異常をきたします。

官兵衛の場合、そうならなかったのは狭い牢の中でも創作活動を続けていたからではないかと想像します。歌を詠んだり、物語を作ったりという創作活動は、それを残そうという欲が無ければ筆も鉛筆もいりません。頭の中の白紙か黒板に書いて消し、書いて消し、繰り返すだけです。官兵衛は頭の中にいくつかの物語や詩を書いて、それを何度も修正し、修正して楽しんでいたのではないでしょうか。信長の未来はどうなる。御着の小寺家はどうなる、そんな物語の仮定を変えつつ何度も何度も、幾通りも考えていたのだと思います。

幸い、この期間に信長も、毛利も、本願寺も目立った動きがありません。信長は三木城と、伊丹城と、大坂本願寺を囲んで兵糧攻めを続けています。

毛利も、打つ手がありません。得意の水軍による上陸作戦も、一時に運べる兵員数が限られます。司馬遼の推測では3千人が限度ではなかったかとしていますが、仮に5千人としてもその程度の人数では織田の兵力に上陸直後に叩き潰されてしまいます。陸路を進むには備前岡山に後背定かならぬ宇喜多直家がいます。播磨に入ってから宇喜多に寝返りをされたら退路を失ってしまいます。そこまでの冒険はできません。

実際、この期間に毛利は水軍による大阪への食料補給作戦を実施しました。が、信長が九鬼水軍に用意させた鉄甲船の前に惨敗を喫してしまいました。その結果、瀬戸内から紀伊水道まで抑えていた制海権のうち、淡路島以東の制海権を失ってしまいました。

従って、荒木村重がいつまで待っても、毛利の援軍は来ないのです。

81、いま官兵衛の目の前にある藤の芽は、官兵衛にとってこの天地の中で、自分とその芽だけがただ二つの生命であるように思われた。
官兵衛は生まれてこの方、生命と言うものをこれほど強い衝撃で感じたことはない。そのものは動く風の中で光に祝われつつわくわくと呼吸しているようであり、さらに言えば、官兵衛に対して生きよ、と天の信号を送り続けているようでもあった。

官兵衛の無聊(ぶりょう)を慰めてくれるのは、牢の扉の上の方にある小さな窓だけですが、春先になってそこに藤の蔓が伸びてきました。日に日に伸びて形を変えます。小さな額の中の絵のようなもので、じっと見つめ続けたら変化に気づきませんが、毎朝同じ時間に見ると、その絵は日々に変わっていきます。空間が小さいだけに余計に変化に気が付きやすいでしょうね。命の危機に瀕していればこそ、命の重みがわかるのだと思います。私たちも普段は病気の心配などしませんが、体の中のどこかに異常を感じると、途端にあれこれと考えだします。とりわけ最近は「これでもか」というほど医療情報が乱発されますので「重病ではないか」と不安に駆られます。「血圧が…」「メタボが…」などと根拠の薄い情報に左右されて要らぬ心配をします。本人以上に俄(にわか)医師が心配してくれるのが鬱陶(うっとう)しい(笑)

82、この時期の信長のやり方を見ると、彼は日本では珍しく大規模な戦略のできる人物であったことがわかる。大規模な戦略ができるというのは言葉を変えていえば補給の感覚が豊富で、堅実だったということであり、この感覚に優れた作戦家は、日本史上では信長の右に出るものはいない。

司馬遼太郎は生半可な歴史家よりも歴史に対する着眼点が優れていると思います。それを示す一文が引用した部分です。一言でいえば「物流」です。軍事用語でいえば「兵站」です。武田信玄と上杉謙信は「戦国最強」と並び称されますが、いずれも上洛の途中で軍を返しています。武田信玄は三河の野田城まで進軍して軍を停止させていますし、上杉謙信は加賀の手取川まで行って、軍を引き返しています。歴史上はいずれも主将の健康問題、つまり信玄は結核、謙信は高血圧をその理由に挙げていますが、実のところは補給が続かなかったのではないかと推察します。信玄の根拠地である甲斐、信濃からは険阻な山道が続きます。謙信の越後からは親知らずの難所、倶(く)利(り)伽羅(から)峠の儉路があります。この道を、食料、馬糧、木材などを輸送していくのは大変なことです。

物流ルートのメインは道路ですが、大量輸送となると水路です。この水路の重要性を認識していたからこそ、信長は居城を安土に構えたのでしょう。琵琶湖という巨大な水路を手中に収め、次は大阪湾の水路を手に入れたかったのだと思います。だからこそ、本願寺が占拠している上町台地(大阪城)の攻略に執着したのでしょう。

83、信長という男は、他の者にはない原理という珍しいものを持っている。官兵衛にはそれが魅力であったが、しかし原理というのはそれが鮮明で強烈であればあるほど、他者を排除し、抹殺する作用がある。

司馬遼は原理と表現しますが「主義」「思想」「哲学」と表現しても同じ事かと思います。

英語でいえばポリシーでしょうか。これが行き過ぎると「原理主義」になり、狂信的になり、手が付けられません。現代でも、宗教勢力や主義を前面に打ち出した国家が、世界の秩序を変えようと暴れまわって戦争の火種をまき散らしていますが、柔軟性を欠いた原理主義は困ったものです。話せばわかる…というのが人間関係の基本ですが、話してもわからないのが原理主義なのです。

信長は至る所で大量虐殺をやっています。その標的になったのが比叡山や一向宗で、女、子供を含めた非戦闘員の皆殺しです。中国攻略にあたっても「逆らうものは殺せ」と秀吉に厳命しています。こういう行き方が、ある程度教養のある荒木村重や明智光秀などには我慢ならなかったのでしょう。荒木、明智は我慢の限界を超えて暴発してしまいますが、そういう信長に違和感を覚えつつ泳ぎ切ったのが半兵衛、官兵衛、細川幽斎、小早川隆景、徳川家康などでしょうね。

秀吉、柴田勝家などは信長の行き方に盲従し、そのやり方だけを真似た人だったようです。秀吉のやったことにポリシーらしきことは見当たりません。あるとすれば「金・権力こそわが命」でしょうか。その思想?(…と言えるかどうかは疑問ですが)にブレーキをかけていたのがこの時期の竹中半兵衛、官兵衛であり、半兵衛亡き後は弟の秀長でした。そのブレーキがすべて外れてしまったところで…朝鮮征伐の愚挙に出ました。

84、いま信長に対して戦われている三つの籠城戦は、形は似ているがそれぞれに違う。
播州三木城は、播州人が播州を守るという強烈な郷土愛が支えになっている。
大坂本願寺の場合は、全国から集まった門徒衆が自分の法義と教団を仏敵から守るという強い意識がある。どちらの戦も、それを支えているのは精神である。
摂津伊丹の荒木村重たちには寄るべき精神がなかった。

ここまで書いてきて…今週の「水の如く」は話の内容が固いことに気が付きました。

まぁ、主人公の官兵衛が暗い牢の中で思索にふけっている期間ですから仕方ないかと思いつつも、書いている方も疲れます。読者はもっと疲れるでしょうね。

戦争をするには、それを支える何がしかの精神が必要になります。明治以降の日本人は「お国のため」という思想(?)に洗脳されて戦場に散っていきました。それを祀るのが靖国神社でしょうか。今どき「お国のためだ」などと口外すれば「右翼だ」「軍国主義者だ」と叩かれますが、我々世代はそれを少し変形させて「会社のためだ」と経済戦争を戦ってきました。が、それもバブル崩壊以降は少し希薄になって、寄るべき精神がなかったという状況ではないでしょうか。

いや、現代の寄るべき精神は「自分のためだ」ということかもしれません。個人主義という「主義」が社会規範として広がっています。それはそれで結構なのですが、それだけでは人間社会が成り立たないのも事実です。権利を主張するのは当然ですが、あわせて義務も果たさないと社会のバランスを欠きます。私の付き合ってきた中小企業を経営されている方々は「税金に取られるくらいなら…」という主義(?)をお持ちの方が多いようですが、納税義務を果たしてこそ企業です。公器として存在価値があります。

益々固い話になりました(笑)

荒木村重は、追い詰められて伊丹を捨て尼崎に逃げ出します。そこも捨てて、毛利勢力圏に逃げ、秀吉の天下になってから許されて…天寿を全うします。