乱に咲く花 25 国破れて山河在り

文聞亭笑一

 今週は、歴史事件的に言えば「池田屋事件」と高杉晋作の野山獄収監が中心になるようです。

文久4年(1864)のこの時期、全国に広がっていた攘夷運動は、すでに攘夷の範囲を越えて討幕運動へと先鋭化しつつあります。とりわけ京都を中心に活動していた志士達は、その殆どが反政府ゲリラと言っても良い考え方をしていました。

長州藩は「禁門の変」で京から追い払われましたが、長州藩士や攘夷浪人たちの多くは京に残っています。彼らはすでに目標を討幕に切り替え、幕府の非力さを満天下に示すことで、勢力を拡大しようと謀っていました。そう言う点では目標が一致しているのですが、方法論に関しては二つの勢力に分かれます。

あくまでも朝廷を動かして、政治的に朝廷直属の新政府を立ち上げ江戸幕府を無力化させようというのが長州藩・久坂玄瑞や、桂小五郎などです。

それでは手ぬるいと、武力攻撃によって敵対しようというのが同じ松下村塾系の高杉晋作であり、土佐の武市半平太であり、肥後の宮部鼎三などです。

一方の幕府は何を考えていたのか…ですが、幕府の内部も割れていました。開国方針で意見がまとまっていたわけではなく、政治力学というのか、派閥争いというのか、党利党略で揺れ動いています。民主党に政権を奪われる前の自民党のようなもので、天下国家のことよりも政権内での勢力争いが関心事です。将軍や、将軍後見職の一ツ橋慶喜の言うことを聞きません。その理由の最たるものが「大奥の御意向」だったといいますから、現代人にはなんとも理解しがたい所です。まぁ、同族企業ではままありがちなことではありますが、大奥の慶喜嫌いは度を越していたようです。それに尻尾を振る老中以下の役人たちも根性なしといおうか、世の中が全く見えていませんでしたね。江戸城という別世界の論理にどっぷりつかってしまっていました。

司馬遼の「最後の将軍」に、その状況を示した部分がありますので、少し長いですが引用してみます。

<島津は朝廷の力を借りて徳川を廃し、自らが幕府を開こうとしている>
と、慶喜は疑った。この疑惑はすべての幕人が抱いている疑惑であり、この角度から観察すると薩摩の政治活動がことごとく解けてくるのである。今や薩摩は朝廷を独占している如くであった。薩摩は公家に工作して、朝廷の主だった者たちを徐々に開国に転換させつつある。
これに慶喜は気が付いていない。だから二条城在中の幕府要人に
「もはや攘夷は行い難い。行えもせぬ攘夷で、朝幕が不和になっているよりも、いっそここで明確に開国主義を打ち出してはどうか」と諮った。が、老中の酒井以下は頷かない。
「幕府ともあろうものが、昨日は長州の攘夷に従い、今日は薩摩の開国に従うとは。
それでは幕府の面目は何処にござりましょうや。もし今、開国を打ち出せば薩摩の権威は虹の如くに上がり、ついには手に負えなくなりましょう。
中納言様がその説をお取りになるのなら、我らは辞任・帰国を申し出るしかありませぬ」

徳川慶喜の評価は様々ですが、世間が見えていなかったという点ではやはり殿様育ちのエリートの弱さでしょうね。それに、情報源が極端に少なかったこともあります。

前にも書きましたが、慶喜が養子に入った一ツ橋家は、代々の臣を持ちません。家臣すべてが幕府からの出向者です。言ってみれば出向社員、いや、派遣社員ばかりの会社のようなもので、信頼できる部下がいません。情報源は平岡円四郎、原市之進などの側近に限られます。

慶喜は上洛に際して軍艦を使っていますが、その航海中に勝海舟から米国事情を熱心に聞いています。勝海舟はご存知の通り咸臨丸で米国に行き、欧米式の政治形態などを含め、見聞を広めてきています。もともと蘭学の素養があり、欧米の文化に触れていただけに、実際の見聞で得た知識は確信、信念のようになり、説得力も相当なものだったでしょう。

京都に来てすぐに「後見邸会議(参与会議)」などを開いたのは、海舟から聞かされた共和制を真似たものでしょう。ですが、会議の運営ノウハウまでは知らず、勝を会議に臨席させることなど、幕府の古法では論外でした。足軽に等しい旗本が将軍後見役の側に控えるなど、考えることすらできませんでした。その点では、幕末の諸藩の方、が流動的な組織運営をしていましたね。能力主義が徐々に浸透していました。とりわけ経済官僚に関して能力による登用が進みました。それでないと、藩の財政が立ちいかなくなっていたからです。

<島津は朝廷の力を借りて徳川を廃し、自らが幕府を開こうとしている>

島津久光の意向は、まさに慶喜の想った通りです。維新が達成された後に、

「ところで、わしはいつ将軍の宣旨を受けるのか」と、真顔で大久保利通に迫ったという逸話が残っています。だからこそ西郷隆盛が「地五郎め(田舎者)」と評したのでしょう。

<幕府の面目は何処にござりましょうや>

これまた当時の幕閣のありさまを良く表していますね。メンツ、体裁にこだわります。

この体質が最後まで続き、幕府は滅びるべくして滅びたと思われます。

大企業病もここまでくると、末期症状ですね。大不祥事を起こした東芝さんも、そういう所があったのかもしれませんねぇ。日本を代表する企業ですし、原子力の分野では世界の最先端を行く企業です。一時のメンツなどにはこだわらず、なすべきことを粛々とやってほしいと思います。

なぜ東芝にこだわるか…ですか。私が社会人として最初に付き合った会社だからです。営業の担当として最初の五年間、東芝社員以上に東芝に入れ込んだからです。東芝の社員以上に東芝の経営方針に精通していると自負していましたからねぇ(笑)

攘夷派の浪士たちは、一度失った勢力を取り戻そうと池田屋に集まり、策を練っていた。
先ず、風の強い日を選んで京の町と御所に火を放つ。参内してくる天皇側近の中川宮を幽閉し、さらに、駆け付けて来る松平容保を斬る。これによって勅書、つまり天皇の意志を我が手に取り戻す…という作戦である。
              (半沢一利 維新史)

御名御璽…これを手に入れて暴れまわった成功体験を取り戻そうという計画です。火付け、拉致、強盗…最悪の犯罪行為ですが、政権を取ってしまえば正当化されます。戦争、動乱とはそういうもので、広島、長崎に原爆を投下した米国政府は、日本にも広島、長崎にも謝罪などしていません。あれから70年…キミマロならどういうギャグを考えますかねぇ。

水に流す文化の日本人は謝罪など求めませんが、怨念の国・韓国は執拗に謝罪を求めます。

何度謝罪したところで怨念は消えませんよね。だから「怨念」と言う言葉があるのです。

ともかく、窮した勢力は過激な行為に出ます。少数勢力で京を守備する会津藩千人に対抗するためには「火」を使うしかないでしょう。京の町は火には弱い構造です。碁盤の目という構造は風が通りやすい、煙突構造でもあります。しかも、節税対策として間口を狭め、緑地は建物の真ん中に置くという屋敷構えですから、まとまった防火帯がありません。京都は応仁の乱以来、何度も戦禍に焼かれていますが、「防火・防災」と言う点では全く進歩のなかった土地ですね。焼きやすいから焼かれたのにもかかわらず、全く反省していませんね。

宮部鼎三を中心とする浪士団が練った作戦は「これしかない」という一発逆転の戦術でした。

「玉(ぎょく)を抑える」つまり、天皇とその側近を拉致して権威を偽称する・・・、弱小勢力が巨大与党に対抗する手段はそれしかありません。

これが…なぜ漏れたのかわかりませんが、京都府警・機動隊である新選組の情報網に漏れます。

この情報をいち早くつかみ、徹底した捜査を指揮したのは土方歳三です。「燃えよ剣」司馬遼の代表作の一つの維新物の主役ですが、この捜査では悪の限りを尽くしたようです。小説の主役の悪事は書かない…というのは先ず常識ですから、司馬遼は書いていませんが、この拷問の指揮を取ったのは土方歳三です。

情報提供者から順に拷問、拷問の繰り返しで、ついに志士の一人である古高俊太郎を捕まえます。古高には、さらに苛烈な拷問で、彼らの会合場所を白状させます。それが池田屋でした。

十重、二十重という表現がありますが、会津藩、桑名藩が外堀、内堀を埋め、その本丸に近藤勇以下の新選組が斬り込みます。僅か20人余りの浪士団が逃げ出す余地は全くありません。

新選組7人で10人を斬殺し、3人に重傷を負わせ、9人を捕縛したというのですから…凄い戦果ですよね。逃げ場を失った攘夷組の自殺的行動もあったと思います。長州の吉田稔麿、彼もそうであったと思います。吉田は体育会系の剣士ではないのです。

維新の志士というと、プロ選手並みの剣術の名人のように書かれていますが、かなり嘘ですね。彼らは、いわゆる文系。軟派の人物で、人斬りなどしていません。斬ったのは土佐の岡田以蔵、薩摩の中村半次郎、肥後の川上玄齋などプロの剣術使いたちでした。嵐勘十郎の映画の世界とは随分違っていたと思います。

周布はこの時期窮しきっていた。彼がやった松陰思想による藩外交のため、文久2,3年における長州の勢いは非常なものであったが、禁門の変によってその反動が来た。一気に退潮してしまった。その罪は周布にある。藩内佐幕派に攻撃されているところに、周布でさえ予測しなかった木島又兵衛などの急進派の大爆発が起こった。
周布は万策尽き、<罪を得てやれ>と晋作が入牢している野山獄に乱入した。

この場面が放映されるかどうかわかりませんが、長州藩は周布政之助の過激政策に対する反動で、守旧派の椋梨一派が復権してきていました。辞任も許されず、過激派への押さえも効かず、周布は自殺的行為に出ます。

ドラマの主役・文の愛する松下村塾系の面々にとっては、壊滅的危機でした。