次郎坊伝25 思惑がうごめく

文聞亭笑一

次郎坊伝では「直虎が徳政令を受け入れた時」を基準に時代を見ていましたから、てっきり永禄11年のお話と思っていましたが先週の番組中に「永禄10年」というテロップが出ました。どうやら1年ほど時計が逆戻りしたようです。永禄10年ではまだ直虎が徳政令反対で粘っていた時期なのですが…まぁいいでしょう。

庵原朝昌

新野の娘が今川の重臣・庵原朝昌に嫁ぎます。テレビでも紹介していましたが、庵原家は今川の軍師・雪斎和尚の実家です。今川家創業以来の重臣ですね。この庵原朝昌が物語の中でどういう働きをするのかわかりませんが、実に変化にとんだ人生を送っていますので紹介します。

今川家重臣として武田信玄の駿河侵攻に最後まで抵抗

その忠義と軍事能力が見込まれ武田家(信玄)に召し抱えられる

武田家滅亡後、妻の縁で井伊家に召し抱えられる(1500石・・・重臣)

政策論争で当主の井伊直政に逆らい、出奔・・・浪人・全国行脚

越中の佐々成政に仕える

佐々家が肥後の政治に失敗し、改易となり浪人

秀吉家臣の戸田氏(大名の戸田家ではない)に仕える(300石)

徳川重臣のとりなしで井伊家に帰参2000石の重臣となる

大坂夏の陣・若江の戦で木村重成を討ち取る大手柄

以後、代々の当主が彦根・井伊家の次席家老として明治維新まで続く

この経歴を見ても、かなりの硬骨漢であったものと思われます。こういう人の嫁さんになったさくらさんは大変だったでしょうね。亭主が次々と転職しては転居を繰り返します。最後は井伊家の家老として明治まで残りますが、初代の功績、内助の功があればこそでしょう。

材木の生産地表記

今週も材木がらみの取引で今川と徳川、織田との確執が出てくるようです。ドラマでは材木に井伊家の焼き印を入れていましたが、これは??ですねぇ。この当時、生産地表記は一般的でありません。勿論、木曽檜などの有名ブランドは別でしょうが、遠江の木材がブランド表記をするほどのモノだったかどうか??

さらに、丸太のまま商いしていたのか、それとも板、柱などに加工して出荷していたか、その辺も定かではありません。物流面を考えれば木材のような重量物は水運が中心だったと思われます。江戸期に入ってもそうです。木場という地名は殆どが河口周辺ですね。その意味で焼き印は木場での所有権を明確にするための印かもしれません。

材木が織田・徳川方へ流れて何が問題か? 戦略物資だからでしょうね。

城や砦などは作っては壊され、また作るというのが戦国時代の通例です。柾目の扱いやすい材木は、工期の短い砦の建設などには重要物資です。

戦国時代の名高い城作りとして秀吉の一夜城があります。最初は木曽川の墨俣に作った一夜城、これは野武士上りの蜂須賀小六、新野将左衛門などが木曽川の上流で木材を伐り出し、加工して筏で流してきた物を組み立てるという方式で、現在のプレハブ、ツーバイフォーと同じやり方です。私の家の隣で建売住宅団地が建設中ですが、その組み立ての早いこと、早いこと… あれよあれよという間に家の形ができていきます。

秀吉が二度目にやったのは北条攻めの折に作った石垣山の一夜城ですが、これも同じことでしょう。プレハブ方式ですね。白壁の代わりに紙を張ったとか…

今度の物語には架空の職人集団として龍運丸なる人物が登場しますが、彼らは秀吉の蜂須賀、新野と同様の野武士というか…渡り職人なのでしょう。

こういう者たちを早い段階から組織化して「黒鍬組」の名でまとめていたのが武田信玄です。現代でいう工兵部隊ですね。

彼らの仕事は進軍のための橋をかける、

沼地を進軍するために木材や板を敷く、

騎馬武者が通行できるように道に張り出した枝を払う

戦略的な道路を新設する

敵城の石垣の弱点を見つけ崩す、堀を埋める

堀の下にトンネルを掘って城内への攻撃路を作る

などですが、かなり優れた土木、建築の技術者集団です。

信玄の軍の強さ、秀吉の快進撃はいずれもこういう人たちを優遇し、その能力を十二分に発揮させたことにあると思います。秀吉の城攻めなどは、どれをとっても土木工事ばかりですよね。

家康の動静

家康はこの頃、織田の後ろ盾を得つつ武田への接近を試みています。

それというのも今川氏真が始めた「塩止め」経済封鎖がきっかけでした。三河には吉良の荘と言う塩の産地があります。そうです、忠臣蔵の敵役・吉良上野介の本貫地・吉良は三河の内です。ここの塩が、一躍注目を浴びます。品不足ですから高値で売れますし、多少品質は落ちても飛ぶように売れます。商品の流通は人の流通も伴いますから、三州街道からいな、諏訪を通じて徳川、武田の情報交流が活発になります。当然、政治的提携も話題に上ります。

家康は織田信長の支援で独立を達成しましたが、信長的独裁政治にはある種の恐怖感を持っていたでしょう。支援者は一つだけより複数あった方が良い・・・そんな思惑から武田とも誼(よしみ)を通じたと思います。徳川と武田の接近ができたのは、当時織田と武田の間には相互不可侵条約があったからでもあります。信長の娘が武田勝頼に嫁いでいます。

しかし、徳川が武田に接近しているという情報はすぐに漏れてしまいます。これを警戒して、信長が送りこんできたのが娘の徳姫です。竹千代(信康)の嫁として送り込み、徳川の勝手な行動を監視するという狙いですね。子会社に送り込んだ監査役、スパイでしょうか。

直虎にとっての運命の永禄11年12月まで、上杉、北条、武田、今川、徳川、織田などの勢力が虚々実々の動きを始めています。徳川と武田による今川領分割占領計画なども闇の中でうごめいています。

知らぬは今川ばかりなり、経済封鎖が情報を封鎖される結果になってしまいました。