どうなる家康 第18回 惨敗・三方原

作 文聞亭笑一

家康の生涯で「命を落とす危機的状況」が2度あったと言われています。

安全な戦いなどありえませんが、死ぬ確率が7割を超えたら「死んでもおかしくない」「死ぬ可能性が高い」危機中の危機ですね。

その一つが三方ヶ原の戦いであったと言われます。

ちなみに、もう一つは本能寺の変の後の伊賀越えです。

織田の援軍の数

今回のドラマでも「信長の援軍は僅か3千」という説を採っていますが諸説あります。それに、織田方の資料と武田方の資料で差があるだけでなく、徳川方の資料の中でも意見が分かれます。援軍として派遣された武将の名を見ると 佐久間信盛(援軍の主将とされています)だけでも2,3千の動員力があります。平手汎秀も織田家の家老ですから千人は動員できるでしょう。同様に水野信元、林佐渡なども織田家の古参の大物です千や二千は動かせます。援軍として浜松にやってきた織田勢の顔ぶれを見たら尾張兵の半分以上を動員できるメンバーです。事実、織田方の資料には2万の軍勢と書いてありますし、佐久間からの報告を受けた明智光秀の記録には5千人と書いてあります。また、別の記録には「佐久間は三河に主力を残し、僅かな手勢で浜松に向かった」ともあります。どうやら、水野信元、林佐渡なども同様で、主力は動かさず僅かな手勢で浜松に向かったのではないでしょうか。全軍が浜松に向かったのは、生真面目な平手汎秀の軍だけだったように思います。 三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍は大敗を喫しますが、織田軍で犠牲を出したのは平手汎秀の部隊だけです。佐久間、水野などの軍は早々に三河へと逃げていますし、林の軍など三方ヶ原に出てきていません。出撃を決めた家康に従って三方ヶ原へと向かいますが、やる気はありませんでしたね。最初から「家康のお手並み拝見」と逃げ腰だったでしょう。

三方ヶ原への誘き出し

「家康を誘い出す戦略を信玄に献策したのは武藤喜兵衛である」というのが、真田太平記など戦国物での定番です。

武藤喜兵衛・・・後の真田昌幸です。

何度も何度も家康を苦しめることになる真田家の2代目、安房守昌幸です。

信之・幸村兄弟の父親です。

籠城の支度をしている家康の前を素通りする。

家康に武士の面目を失わせるようにして冷静さを失わせさせると言う心理戦ですが、果たして家康はそれだけで有利な籠城戦を捨てたのでしょうか。

むしろ、籠城の生命線を狙われたと知って飛びだした・・・とも言われています。

浜松城には徳川兵8千と、織田の援軍3千が籠もります。

その食料は城内の備蓄だけでは足りません。

補給路が必要です。

三河からの補給ルートは浜名湖の湖上水運です。

その港にあるのが堀江城です。

「信玄は浜松の城攻めを兵糧戦と考えていた。

そのため補給路の堀江の港を奪う」という戦略を考えて、そちらに向かったというのです。

どうも・・・こちらの方が・・・説得力がありますね。

堀江城の位置は現在の舘山寺温泉の辺りです。

浜松の北に広がる三方原台地を通り過ぎた、その先です。

事実、三方ヶ原の戦いの後、武田軍は堀江城を攻撃していますが、落城しませんでした。

三方ヶ原での不思議な陣形

三方ヶ原の戦いは、待ち伏せしていた武田軍の罠に徳川軍がはめられた・・・と語られます。

が、それにしてはおかしな事が幾つかあります。

徳川軍が出撃するのを待ち構えるのなら、武田は兵を隠して大きな罠・鶴翼の陣で迎える方が有利です。

鶴翼の陣は鶴が大きく羽を広げるように円形に陣取って、真ん中に入ってくる敵を押し包んで全滅させる陣形です。

兵力の多い、有利な方が採る作戦で三方ヶ原では武田が採るべき陣形でした。

が、信玄は逆の魚鱗陣で待ち構えていました。

魚鱗陣は兵を1カ所に集中させて、敵の弱い一点を集中的に攻撃する陣形です。

一方の徳川軍は兵力が少ないにもかかわらず鶴翼の陣を敷きます。

少ない分だけ陣形が薄くなり、突破されやすい不利な陣形です。

何故、双方が逆の陣形を敷いたのでしょうか。

家康方が間違えた理由として考えられるのが

① 武田方の兵数を読み間違えた

武田軍が3万だと言うことはわかっていたが、魚鱗陣で固まっていたため大人数に見えず、主力部隊は既に三方ヶ原の下りに掛り、残っているのは殿軍部隊の数千であろう・・・と読んだ。

② 自軍は1万ほどしかいないが、それを2万、3万の軍に見せるため、大きく陣を張った。

一方の武田軍も、なぜ魚鱗陣だったか不思議です。

信玄も間違えていたかもしれません。

① 織田の援軍を2万、3万と読んでいた。

織田方の援軍で浜松に籠城に入ったのは僅かだが、佐久間、水野、林など・・・顔ぶれを見たら2万、3万を動員できる軍勢である。

どこかに伏兵がいる可能性がある。

事実、佐久間兵の主力は三河吉田城にとどまっていた。

水野の主力も三河に残っていた。

② 狙いは家康の首一つ・・・と、中央の家康本陣へ集中攻撃をかける戦法を採った。

どちらも思惑が外れて、変な、互いが逆の陣形で戦いが始まったようです。

戦いの緒戦は様子見のような個別戦闘でしたが、石川隊が崩れた敵を深追いして孤立し、武田軍に囲まれ、救援に行った本多隊が山県隊と戦い、次々と新手が参加する戦いの中で「織田の援軍は少数」という事実が信玄に確認されます。

・・・となってからは数に物を言わせた武田方の力攻めに、1万と3万の軍事力の差が歴然と結果を生み出します。

さらに少ない兵力の中から佐久間、水野などは早々に戦場離脱して退却を始めます。

こうなれば、一気に勝負は付きます。

空城の計

負け戦から家康がどうやって逃げたか・・・テレビにお任せしましょう。

多くの臣下の犠牲で、なんとか浜松城に逃げ込みました。

家康の計算か、酒井忠次の計算か、城門を大きく開けたまま、城を篝火で明るくして、「さあこい」と追撃してくる武田軍を待ちます。

負けたはずの敵が城門を開いたまま守ろうとしない・・・もしかして、戦場に参加しなかった万余の織田軍が待ち伏せしてはいないか、武田軍は疑心暗鬼になります。

そして、城からは太鼓の音が打ち鳴らされ、敗残兵が次々と帰還してきます。

「何かある・・・ヤバイ」武田兵は引き上げました。

このやり方、兵書36計の32番目の「空城の計」いわゆる心理作戦ですね。

攻め込んできた武田の山県隊が、なまじ兵書を知っていたために、警戒しすぎて家康を討ち漏らしました。

太鼓を叩いた・・・というのは後世の作り話、自慢話のようです。