紫が光る 第21回 いとおかし
作 文聞亭笑一
長徳の変(花山上皇狙撃事件)と、為時の越前守赴任の時期との前後関係を間違えたために、2週間分もフライングしてしまったのが#19です。
今週は2週間前の「紫が…19」をお読みください・・・と言って、逃げ出したいところです(笑)
道長のイメージ
先週号に読者からのコメントが届きました。
NHK大河での道隆は傲慢の典型に描かれ、道長は優しい人・下々の人を思い遣る人・
Noblesse oblige を理解し実践する人と描かれている。
「この世をば・・」の望月の歌は道長の傍若無人ぶりを表す歌と中学生時代に習ったのだが・・・。
我々の世代は中学の社会科か、高校の日本史かで、道長の歌を目にしたか、耳にしました。
この世をば 吾が世とぞ思ふ望月の 欠けたる事のなしと想はば
道長の完熟期・・・というか、政権から引退後の、隠居時代(大御所時代)の歌ですね。
天皇家は自分の子や孫で抑えています。
今も、次も、自分の家系が続きます。
関白以下、公家社会も完全に掌握しました。
御堂関白家(道長家)に対抗する者はいません。
そしてそれを・・・息子を関白にして、政権を禅譲し、後見します。
もう思い残すことはない・・・
功成り、名を遂げた満足感と、自分の死を予感していた時期の・・・辞世に近い歌なのです。
「望月の歌」を「傲慢の典型」にしたのは戦後の史観の作文でしょうね。
明治以後の日本の歴史というか、歴史解釈は「皇国史観」というとんでもなく偏った歴史観で構築され、それが一般大衆にまで教育されてしまいました。
一種の国家宗教です。その無茶苦茶の代表が廃仏毀釈でした。
薩長新政府はタリバンと同じ事をやりました。
天皇を現人神、神様にするためには、その対抗馬の仏様は徹底排除でした。
明治維新というのは一種の宗教革命で、仏教や八百万神を祀る日本文化を「未開」と断定しました。
先進国のキリスト教・・・一神教こそあるべき姿と考えたのではないでしょうか。
かといって・・・キリスト教に染まるわけにもいかぬ・・・と、作り上げたのが皇国史観です。
学校という公的大報道機関を通じて日本人に新思想を植え付けました。
「天皇陛下万歳」の基礎です。
ところが、皇国は敗戦。皇国史観は全否定されました。
天皇は神ではなく、普通の人でした。
勢いに乗った革新派、とりわけ日教組が、日本的伝統を全否定します。
天皇を支えた公家社会、そしてその後に誕生した武家社会、みんな悪者です。
そういう時代の英雄は極悪人になります。
公家社会=貴族社会・・・身分制・・・貴族だけが豊かな社会
その時代のヒーロー 道長
武家社会=軍事政権・・・専制主義の戦争体質の社会
その英雄は信長、秀吉、そして家康
とりわけ長期安定政権を拓いた道長と、家康は「悪い奴」の代表選手ですね(笑)
実際の道長は病気がちの、普通の体格の人で、およそ英雄らしい剛健な人とは正反対の、軟弱タイプだったようです。
スポーツマンとしても「並」、中の上、ゴルフで言えば100を切る程度の腕前だったようで、体育会系で活躍したという記録はありません。
実資の日記(小右記)でも、自分の日記(御堂関白記でも)しょっちゅう病気をしています。
定子の落飾
ドラマでは定子が伊周を捕らえに来た兵士から刀を奪い、自らの髪を切る(落飾=出家)というドラマティックな場面をやっていましたが、残っている記録では「自ら鋏で髪を切り、落飾した」とあります。
このことで、伊周や隆家のサボタージュ(任地へと出立しない)が許されたとも言われます。
定子の落飾がなければ・・・伊周の罪が更に重くなった可能性があります。
尤も、定子の落飾に一番驚いたのは一条天皇でした。全くの予想外だったようです。
天皇は伊周や隆家の不謹慎には怒りを露わにしていましたが、定子への愛情は変わっていません。
罪人の身内という世間体があるので・・・内裏から里帰りさせていただけでした。
伊周達が大人しく命に従い、任地へと出立したら・・・、ほとぼりの冷めた頃に御所へ呼び戻すつもりでした。
事実、一年後には特赦が発せられ、伊周達は都に戻っています。
定子を内裏に戻したい一条天皇と、出家したものを皇后に戻すような不謹慎を「由々しきこと」と目を光らせる公家衆・・・とりわけ風紀に関して前例を重んじる藤原実資などが目を光らせます。
それでも定子に会いたい天皇は、定子を御所の敷地内の内裏(天皇の居住地域)ではない場所へと住まわせ、夜陰に紛れて通う・・・という俗人と同じ事を始めます。
この頃には第一子の脩子内親王も生まれています。
初めての我が子ですから可愛かったのでしょう。
この有様を実資は日記に「天下不甘事(異例中の異例、とんでもない不祥事)・・・」とすら書いています(小右記)
これを道長はどう見ていましたかね。
いずれは自分の娘・彰子を入内させ中宮にしようと考えていたでしょうが、この頃は8歳です。
入内するには最速でも13歳ですから、5年先の話です。
当面は姪でもある定子に任せておくしかないと考えていたようですね。
一条帝の後宮には女御で元子、尊子がいますが、天皇は殆ど見向きもしません。
ちなみに尊子は次兄・道兼の娘です。
それだけ・・・定子の魅力が勝っていたとも言えます。
清少納言は枕草子の一節に
「思慮分別があって、しみじみと情け深い点で、彼女に勝る人がいるだろうか」と絶賛しています。
清少納言は定子の官房長官みたいな人ですから割り引いて読まなくてはならないかも知れませんが、それでも最大級の褒め言葉でしょうね。
そういう人だったのでしょう。
この頃からでしょうか。清少納言が枕草子の執筆を始めます。
内裏の中宮に戻れない定子を慰めるために「春は曙、ようよう白みゆく・・・・・・いとおかし」と綴ります。
枕草子は「いとおかし」で終る文章が多いのですがパソコンに「おかし」と入力すると「お菓子」「可笑し」「犯し」などと誤変換してくれます。
清少納言の言う「おかし」は「興味深い」「面白い」の意味ですね。
自然現象や社会事象を「当たり前」と見逃すか、「面白い」と興味を持って見るか・・・、その事で世の中の見え方が変わってきます。
40年前に、当時のボス(先般のコロナで亡くなった人)から
「おい、この言葉を社内で流行らせてくれ」と頼まれました。
メモには「それは面白い!」と書いてあります。
オイルショックだったか、ニクソンショックだったか、沈滞ムードが漂っていた頃です。
会社全体が守勢になっていて、現場からの提案には「下らん」「前例が・・・」「考えておく」という答えばっかりの頃でした。
メモを見て「これは面白い」と答えた私にボスも大笑い。
かくして「それは面白い」キャンペーンが始まりました。若手を集めての「くるまざ」、経営と現場との「ひざずめ」・・・ボスが「面白い」「面白い」と受けてしまいますから企画にいた私たちは大変でしたが・・・面白かったですね。
これが成長の原点とは・・・いとおかし。