水の如く 22 官兵衛救出

文聞亭笑一

官兵衛の牢生活も長くなりました。一年を過ぎます。環境の悪さと、食生活の乏しさで栄養失調は勿論、運動不足も含めて生きているのが不思議なくらいです。NHKの物語では土牢に閉じ込められたとなっていますが、実際は映像よりは良い環境だったと思います。少なくとも床や壁板はありましたね。露出した土の面があれば、そこを掘り広げることができます。とりわけ床が土ならば脱獄が容易になってしまいます。

官兵衛にとっては夏が大変だったと思います。蚊や虱(しらみ)といった害虫に狙われます。その傷跡に黴菌が入り腫瘍になります、暑さ、寒さよりも痒(かゆ)さに耐えるのが大変だったでしょう。更に、伊丹城内の食料が枯渇してきます。当然、囚人である官兵衛への割り当ては減らされます。籠城戦が長引けば、真っ先に飢え死にするのが官兵衛の運命でした。

官兵衛のこの経験が生きたのかどうか、官兵衛が生還してからの秀吉の戦法は、三木、鳥取、備中高松と籠城する敵を「干殺し」にすることが続きます。食料を絶って飢えを待つというやり方ですから、これほど非人道的やり方はありません。が、現在でも各地で行われている「経済制裁」と言うものは、干殺しに似た性格を持っています。

それはさておき、野戦と言われる野外決戦と、籠城戦の違いですが…この両者に決定的に違うことは部下の統率の差です。

野外決戦の場合、敵味方の動きは将にも兵にも観ることができます。優勢、劣勢の判断ができます。ですから情報管制などできません。「進め、進め」「逃げるな」と言っても、明らかな劣勢になれば、兵は逃げ出します。そして一気に勝負がつきます。

一方、籠城戦は勝ちも負けもなく、にらみ合うばかりです。大将が「援軍が来る」と言えば、将兵はそれを信じるしかありません。情報管理がしやすいのです。

企業間の戦でもそうですが、「強い商品」をいかにして生み出すか。野外決戦に出るか、籠城するか、判断を迫られますが、少なくとも籠城(リストラ)ばかりでは勝ち目はありませんね。反転攻勢への道を探るしか、生き残りはないでしょう。

85、8月も終わりに近づくころ、城内の衆は、もはや毛利軍は来ない、ということを、決定的に知るようになった。毛利軍が来るということで、この籠城の機略性と功利性が成立していたのだが、それは去った。
無意味ではないか、という声が、城内のあちこちから出始めた。

籠城していても外部の情報は入ってきます。織田方からの宣伝情報ばかりでなく、本願寺や先に寝返った高山、中川などの旧友からの情報もあります。また、荒木方も情報要員を忍び出させていますから、彼我の状況はかなり正確にわかっていたはずです。

「織田の情報は嘘だ」ということは言えても、本願寺や高槻の高山兵、茨木の中川兵の伝える情報には信憑性があります。そういう情報は村重や重臣に入るのではなく、下々の兵卒の耳に入ります。兵卒と言っても、もとは摂津の百姓なのですから兄弟、親戚が城方と攻め手に分かれています。情報の封鎖などできるはずがありません。

「毛利水軍が負けたらしい」「九鬼の水軍が尼崎沖を遊弋している」「本願寺は兵糧を絶たれた」「宇喜多が寝返ったらしい」 … …

城方にとっては不利な情報ばかりです。村重が「必ず毛利が支援に来る」と叫べば叫ぶほどに、不利な噂が勢いを増して広がります。情報管制が利かなくなりました。

86、9月2日夜、村重は掻き消えるように伊丹の城から落ちてしまった。
重臣にも洩らさず、士卒も捨てた。また妻子や、多くの妾達にも何も言わず、それらを置き去りにした。脱出のために、5,6人の従者だけを連れて出たが、全く身一つと言っていい。

司馬遼は「村重はノイローゼ状態であった」と推測しています。多分そうでしょう。

村重とて、毛利の援軍が絶望的であることは、将兵以上に知り抜いています。しかし、事ここに至っても、降伏の二文字は彼の頭にはありません。信長が村重一族だけではなく伊丹の城兵を皆殺しにするであろうことは容易に想像できました。叡山の焼き討ち、長島の皆殺し、いずれも彼自身も参加してやったことです。信長の苛烈さを最も良く知る一人なのです。

更に、中国戦線で彼がやった調略の一つ、重臣をそそのかして城主の首を差し出すという内部の裏切りの影に怯えます。重臣や一族、さらには息子までもが信じられなくなります。城内の者、すべてが敵に見えてきます。

こうなれば…逃げ出すしかありません。ノイローゼ状態から彼を救ったのは「わしは…もともと一介の浪人だったではないか」という原点回帰の発想でした。守るべきものがあれば、人は進退に窮しますが、すべて捨て去る決心をすれば、権力も名誉も、そして将来の期待も、守るべきものがなくなれば、発想が自由になります。

伊丹にいては逃げ道がない、が、尼崎の支城であれば敵の監視は緩むであろう。その隙をついて逃げる。荒木村重としてではなく、本願寺の浪人として毛利圏に逃げ、彼を騙した足利義昭に唾でも吐きかけてやらねば気が収まらぬ……そんなところでしょうか。

もはや彼の頭にあるのは「脱走者」としての自分しかありません。逃げ切ります。

87、節義という言葉は、江戸期の武士の倫理用語になったが、この時代の武士には、あまり使われることがない。しかし、それに該当する倫理的感情はあった。たれもが、官兵衛のすざまじいばかりの節義に感動せざるを得ない。

家族や部下を捨てて、身一つで逃げだす…江戸期でも現代でも、倫理的に非難される行為です。失踪事件というのが好意的に受け止められることはありませんよね。

ましてや、その後に起きた信長の大虐殺ですが、今回は兵卒にまでは及びませんでした。が、荒木一族、縁者には皆殺し以上の過酷な虐殺をやってのけます。具体的に書くのが嫌になるほどで、非戦闘員を、わざわざ京の都にまで連れていって、なぶり殺しに公開処刑をやってのけます。

現代人の私からすれば、晩年の信長は精神異常者ではないか…としか考えられません。そこまでしなければならない理由が考え付かないのです。

近世にも信長が現れました。ヒトラー、スターリンです。そして現代ではオーム真理教、イスラム原理主義…狂っているとしか考えられませんが、精神異常者として無罪にするわけにはいかないでしょう。精神異常者を無罪にするという現代の司法の流行には…納得がいきませんねぇ。ウイルス事件の犯人に対しても、弁護士は精神鑑定を持ち出して無罪を狙うようですが、加害者の人権擁護が行き過ぎているように思います。

それに対して、官兵衛の身を呈した「節義」は敵味方を越えて感動を呼び起こしました。

狂人の信長ですら「官兵衛に合わせる顔がない」と、頭を抱えます。

88、竹中半兵衛の才能は、栄達への野心を捨てたところに息づいていた。
錯綜した敵味方の物理的情勢や、心理状況を考え続けて、ついに一点の結論を見出すには、水のように澄明(ちょうめい)な心事を常に持っていなければならない。

竹中半兵衛は、官兵衛が捕らわれている間に、その生涯を終えます。

末期の肺結核でありながら、彼がなぜ、平井山の秀吉の陣中に戻ったか。

理由はただ一つ、宇喜多直家の寝返りを確実にするためです。「宇喜多を落とせば毛利は方針を変える」というのが彼の信念だったのでしょう。それができるのは自分しかいないという使命感が、無理を承知の播磨行きの理由でしょう。

陣中で死にますが、それまでに宇喜多直家の寝返りを成し遂げています。宇喜多直家も死期を悟っていますから、死ぬ者同士が互いの死を賭けた壮絶な外交だったと思います。残念ながら、この間の事情、やり取りを記録した資料はありませんし、多くの小説家も避けて通っています。戦国随一の悪党大名と、これまた戦国第一の軍師の壮絶な交渉事…

想像を絶するのでしょう。無茶、無鉄砲な文聞亭でも挑戦する気にはなれません(笑)

引用した一節は、官兵衛の独白として記載されています。官兵衛の隠居してからの号である「如水」の由来ともいうべき部分です。

軍師とは、参謀とはかくあらねばならない…と身動きもとれぬ戸板の上で悟りますが、その後の官兵衛がこの悟りの通りに行動したわけではありません。天下統一の完成後に、官兵衛を嫌いだす秀吉、金と女に目が眩んで狂いだす秀吉、信長の真似をして夢想のために朝鮮人を虐殺する秀吉…そう言う秀吉に愛想を尽かせて、軍師ではなく、自らが主役となって天下取りを目指します。

NHKがどこまで、どの時代まで描くのか? それがわかりませんねぇ。