乱に咲く花 26 猪突暴走

文聞亭笑一

長州は沸き立っています。高杉晋作が組織した奇兵隊はそれまで政治と無関係であった庶民ですから、時の流行に流されやすい性向を持ちます。これを抑えるか、煽り立てるか…その都度、煽動家と為政者の意志が働きます。「理屈と膏薬は何処にでも貼りつく」という諺の通り、理論や理屈は後付で何とでも捏造できますから、まずは火をつけてしまうのが大衆の熱気を燃え上がらせる鉄則なのです。

ついこの前、自民党政権の無能さをついて、鳩菅蝦蟇の政権奪取がありました。

マニフェスト選挙、年金選挙がそれです。今また、自衛のための安保法制で「戦争反対」を掲げて、憲法談義などの不毛な神学論争を仕掛けていますが、これまた同じ手法ですね。戦争反対は国民の総意です。戦争をしたがる国民は一人もいないでしょう。しかし、戦争を仕掛けられたら無為無策で蹂躙されているわけにはいきません。「平和を愛する国々ばかり」というのが憲法の大前提ですが、そうでもない現実に目をつぶっているわけにはいかないのです。

長州は尊皇攘夷の旗印を掲げます。これも同じ性格を持っていたと思えばいいでしょう。神学論争と言って良いのではないでしょうか。日本が置かれている国際的位置には目もくれず、歴史認識を楯に世論を沸騰させます。攘夷=鎖国が維持できる情勢か否か、諸外国と戦って防衛できるか否か、そこのところを無視した主義主張です。

世論誘導という手法を使っているのが韓国のオバサンの「歴史認識」という反日運動であり、それを利用した中国の反日政策です。中国と韓国でニュアンスが違うのは、中国のしたたかさで「敵の敵は味方」と韓国を煽りたてていることですね。中国の敵は米国で、その米国の手先である日韓が仲たがいすることは大いに結構なことなのです。それに加えて沖縄の翁長さんが反政府運動をすることは大歓迎です。上手くすれば、尖閣どころか沖縄まで手に入りますからねぇ。

戦争反対…当たり前でしょう。99%の国民は同意します。

泥棒には自衛のために鍵をかける。99%の国民は同意します。

が、憲法学者の論争などは…高校の国語の時間の講義を聞くようで眠くなります。法律とは、所詮、そういうものかもしれませんが、現実の政治経済とは別次元のようです。それを…国語も法律も劣等生の政治家がもてあそびますから乱闘騒ぎを起します。

そういう現代の国際状況、政治状況を踏まえて「花燃ゆ」を見るのも一興でしょう。燃え上がってしまった大衆運動、着々と狭まる包囲網、そういう中で苦悩する長州藩が今回です。

政略的発想をすれば、身動きは柔軟で機敏でありうるが、思想は本来硬質なもので、柔軟ということからほど遠い。

これは司馬遼の哲学の一つでしょうが、理解できないまでも何となく同意できます。現代の国際社会では「思想」がかなり色濃く出て、現実判断をゆがめているのではないでしょうか。ISかイスラム国か知りませんが、あの人たちは自説を一切変えません。イスラム原理主義の頑強な思想に凝り固まって、死ぬことすら怖れませんから手の打ちようがありません。一時期の日本陸軍そのもので「一億玉砕」を掲げます。プーチンはウクライナで原爆使用をにおわせましたが、アメリカの軍部も似た心境かもしれませんよ。広島、長崎への原爆で「皇国原理主義」の日本陸軍を降伏させた成功体験が目にちらつくでしょうね。

木島又兵衛を代表とする長州奇兵隊の盛り上がりは止め様がなくなりました。

松陰が「諸君、狂いたまえ」と叫んだ掛け声が、現実に実現してしまったのです。

こうなれば周布も、久坂も、高杉も抑えられません。熱気で暴発するばかりです。

一方、この頃の幕府の方はどうなっていたのでしょうか。

将軍は飾り物で、政権担当者は将軍後見役・徳川慶喜です。慶喜は洋行帰りの勝海舟からアドバイスされた共和制を真似て「参与会議」を構成し、四賢公と言われた松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、島津久光(薩摩)に會津、桑名を加えて合議制の内閣を構成していました。が、会議と言うものの進め方を知りません。勝から会議というハードは教わったのですが、運用のソフトは聞いていません。ですから…会議になりません。銘々が好き勝手を主張し、好き勝手に動き回り、バラバラです。とりわけ薩摩は宮廷工作を担当した西郷吉之助、大久保一蔵などが暗躍し、公卿たちへの多数派工作を進めています。藩主の久光はそこまで踏み込んでいませんが、西郷には明らかに「討幕」の意志がありました。

前号でも触れましたが、この参与会議は半年も持たずに瓦解します。瓦解の理由は薩摩による宮廷工作が慶喜にばれたことで、会議の席が乱闘騒ぎになります。この後、慶喜は独裁を宣言しますから、春嶽、容堂、宗城などはバカバカしくなって国許に引き上げます。

独裁を宣言したものの、慶喜には全くブレーンがいません。幕府の老中連中や、主要閣僚は慶喜のやり方に不満ですから「豚一殿」「二心殿」などと距離を置いて、「お手並み拝見」を決め込みます。

余談ですが、慶喜が「豚一」と呼ばれたのは無類の肉食好きにあります。ある意味で開明的な人だったようで、仏教のタブーを無視して肉食をしていました。「豚を食う一橋」それが豚一です。二心というのは「将軍家茂を廃して幕府を乗っ取るつもりに違いない」という疑いですね。更に攘夷といったり、開国といったり、方針が定まらなかったことからです。しかし、慶喜としては開国の方針は不変でした。が、時と場合によって使い分けをやりました。抜群の弁舌家である自分に酔って、理屈をこねまわしたのです。現代でいえば菅直人的…?

更に、唯一の信頼できる部下、平岡円四郎が暗殺されてしまいます。情報源も失いました。

孤立無援、裸の王様が京の都で政権を握っています。

蛤御門の戦をやってのけた長州兵は、戦闘よりも調略に長けた戦国の頃の毛利兵とは少し違うようであった。彼らは戦国の毛利兵になかった猪突の行動力を持ち、猛進して打算を忘れ、死を恐れぬばかりか、死を喜ぶばかりになっていた。このエネルギーは松陰が言う狂気の種を蒔くところから始まった。
(中略)
この乱入軍が思想的軍隊であるという点で、日本史上珍しかった。先例としては戦国期の一向一揆や、徳川初期の島原の乱があるが、ともかくこの一軍はただ一つの思想と、ただ一つの目標によって、一兵に至るまで統一されている点が目覚ましい。

司馬遼のこの辺りの記述は、幕末に中立を保ちつつ、出番を探していた佐賀藩主・鍋島閑叟の話を下敷きにしています。「佐賀人が通った後にはぺんぺん草も生えぬ」などと言われますが、これは維新の折に佐賀藩が最後の最後まで情勢を見極めていて、犠牲ゼロに近い形で政権の中枢に参加してしまったことへの僻みでしょう。明治新政府を作ったのは薩長土肥だと言われますが、肥前藩は殆ど戦争に参加せず、人材を温存して政府の要職を占めています。それに反して、攘夷運動の草分けであり、尊皇思想の提唱者であった水戸藩は明治新政府ができた頃には殆どの有為な人材を失い、全くと言って良いほど政府に参加できませんでした。

それは別として、京に乗り込んだ長州兵1800人は安保騒動の時の全学連のようなものです。軍事訓練は殆ど受けていませんし、武術の素養もありませんが、やる気満々です。こういう集団の統率は実際・・・無理ですね。勢いのままに動きます。しかもこの長州軍の中には真木和泉を始め外人部隊が100名以上混じっています。彼らは京で公家相手に攘夷の政治工作をしてきた面々ですから煽動にかけてはプロばかりです。政治に初心な奇兵隊士を煽りたてることなど朝飯前です。京を取り囲んで気勢を上げれば、弱腰の幕府など逃げ出すに違いないとデモ隊を煽動します。そう、この時の長州兵は安保騒動の学生デモ隊によく似ていました。

京の郊外、山崎、伏見、嵯峨にそれぞれ布陣していた長州軍が二十日間も無駄な日を送ったのは、彼らが思想団体で、その思想を朝廷に公認してもらうための努力の期間が、この二十日間なのである。彼らが政略や戦略だけで動けば、あるいは勝って…というより一時でも京を占拠して…いたかもしれない。戦争だけで割り切るならば、戦機をつかむだけで済む。掴んで敵の油断に付け入り、火の如く侵掠すればよいのである。

その思想を朝廷に公認してもらうための努力をし、頑張ったのが文の夫・久坂玄瑞はじめ松下村塾の面々です。伝手を頼って公家に働きかけるのですが、「長州軍に囲まれた」と聞いたとたんに公家衆は「反長州」になってしまいます。聴く耳を持ちません。

慶喜のことを「豚一」「二心」とあざけますが、自分たちこそもっとひどい二心、三心で自己本位の権化です。慶喜に禁裏守護総督などという臨時の役職を受けてくれるように懇願し、身の安全しか考えない連中です。そんな役職を作らなくても京都守護職の會津・松平容保がいるのですからそれに任せればよいのに、慌てふためきます。源平以来毎度のことですが、京の公家たちはいつも同じことの繰り返しでした。

現代ではこれに近いのがマスコミと霞が関の高級官僚や有名大学の教授たちですね。口先三寸で偉そうなことを言いますが、危機管理に関しては全く無能です。

中国の力による侵略は許せぬ。断固排除すべきだ

しかし、安保法制は憲法違反である。戦争になることはやめろ。

じゃぁ・・・どうするんですかねぇ。それを考えるのが政府だ…ですか。

脳天気で結構なことでございます。が、公家共が騒げば騒ぐほど国益を損じていきます。

代案を示さずに反対だけする人たちほど卑怯な人種はいない…というのが実業界育ちの感想ですが、生まれも育ちも「虚業」に漬かっていれば、卑怯の意味が分からないのかもしれません。

まぁ、とにかく・・・当時の公家たちは平和主義者でした。無事これ名馬なり…の信奉者でした。