次郎坊伝 26 武田の食指

文聞亭笑一

今回の大河ドラマがイマイチ盛り上がらない理由の一つに、登場人物が少ない、しかも戦国ファンならずとも誰でも知っている有名人が登場しないことでしょうね。永禄10年、11年というのは戦国の有名な大名が領土拡大を狙って猛烈に戦いを繰り広げていた時代です。「戦国」という名の通り、日本中が戦いの渦でした。

ところが、ドラマに出てくるのは徳川家康と今川氏真くらいで、織田信長ですらほんのチョイ役ですよねぇ。日本中で大嵐が吹き荒れているのに、浜名湖周辺だけ波静かで材木の売った、買った、の話では・・・どうもピンときません。西日本、九州の島津や四国の長曾我部、中国の毛利などの動きは浜名湖方面に影響しませんが、上杉謙信、北条氏康、武田信玄は直接、間接に井伊谷に影響をもたらします。

文聞亭が映像を見そこなっているのかもしれませんが、上杉謙信は少し遠いですが北条氏康、氏政親子や武田信玄が出て来なくては全体像がつかめません。彼らの動きで今川が揺れ、その揺れが井伊谷にも伝わってきます。だからこそ、材木の値打ちや売り先が問題になります。

戦国の戦法

テレビの映像にするには仕掛けが大きすぎて無理かもしれませんが、戦国時代の戦は大別すると野戦と籠城戦と海戦に分類できます。

野戦というのは文字の通り、平地や山中などで大軍と大軍が激突する戦いで、その最たるものが「関が原」であり「川中島」です。次郎坊の時代になると、勢力の大きいもの通しがぶつかる万対万の戦が増えてきます。上杉、北条、武田が三つ巴で戦った戦争は殆どがこういった大規模戦になります。

一万人とは凄い数ですねぇ。よほど広い場所がないと槍や刀を振り回せません。しかも騎馬武者が駆けまわれません。川中島の八幡原のように大河の合流地点とか、三方が原のような広い高原がないと一斉に戦うことは無理でしょう。従って、野戦の場合でも「ヨーイドン」で全員が戦いに入るわけではなく、先鋒同士が戦い、劣勢の方が退却して次鋒を繰り出し、次々と入れ替わって戦ったのでしょう。軍勢の多い方は遊撃軍を敵の横ないし後ろにまわりこませて「横槍を入れる」という戦法をとります。この作戦が成功すると、敵は一気に崩れ立ちます。逃亡兵が出始めたら大勢が決します。

読者の多くの方は運動会の騎馬戦で、この種の作戦を考えたことがおありかと思いますが、百人対百人でも作戦通りにはいきませんでしたよね。敵に後ろを見せる馬が出たら、大概は負けです。

陣立てには鶴翼の陣(人数の多い方が半円形に布陣し、少ない方を包み込む陣形)と、魚鱗陣(三角形のような形になり、敵陣の一カ所を集中して攻め中央突破する陣形)がありますが、魚鱗陣を得意としたのが武田信玄です。騎馬軍団が一点に集中して波状攻撃をかけますから支えきれません。

そのライバル上杉謙信が得意としたのが車懸りです。これは車を回すように回転しながら攻撃と退却を繰り返します。攻めては休み、また攻めるという方法ですから兵が疲れません。

川中島の合戦というのは、その意味で名人戦でしたね。戦法を駆使して一歩も譲りません。

籠城戦とは劣勢の方が城に籠り、敵の攻撃を防ぎます。戦国の城は「要塞」ですから色々な仕掛けをしています。昨年のドラマで出てきた真田昌幸の上田合戦や、真田幸村の大阪城・真田丸などその典型で、万余の敵を数千の兵で翻弄します。常識的には城攻めは守備兵の3倍の戦力が必要と言われますが、城の立地や防御の仕掛けによっては5倍、10倍の戦力でも落ちません。仕方がないから、秀吉が得意とした水攻めなどの兵糧攻めをします。ただし、要塞に籠っている間に援軍が駆けつけ、包囲を分断されると逆に攻城側が不利になります。城を囲んで兵力が分散していますから各個撃破されてしまいますし、城側との間で挟み撃ちを受けて壊滅します。

籠城側は上田合戦の場合もそうですが城下町にいろいろな仕掛け、罠を用意して待ち受けます。上田を攻めた徳川軍がモノの見事にその罠にはまり惨敗を喫しました。

こういう工作をするために、大量の材木が必要になります。

一方、攻める側はこの種の罠を避けるために城下を焼き払います。民家であろうとお構いなく焼け野原にしてしまえば罠の仕掛けようがありません。

したがって、城下を再建するためには木材が要ります。

さらに、攻める側が籠城する相手を長期包囲するために「付城」を築きます。一種の関所のような要塞で、籠城側への物資の搬入を阻止するための陣地です。これにも木材は必要になります。

良質な木材は軍需物資である…ということです。敵側に渡してはいけません。

甲駿手切れ

信玄は永禄8年ごろから戦略転換を企画し始めます。

信玄の狙いは「海の道を手に入れたい」という一点で、北進し当時海上交通の大動脈である日本海へ出ようとしました。ところが、上杉謙信の意外な強さに舌を巻き、方針を南の海、太平洋に切り替えます。

南に出るには、富士川を下って駿河に出るか、それとも諏訪から伊那、更に三州街道を下って三河に出る道があります。いずれを取るか…、信玄の選択は駿河攻略でした。今川氏真を叩くか、それとも新興の徳川家康を叩くかという選択です。駿河に決めた理由は二つでしょう。

一つは補給路の問題です。戦争は物流能力で勝敗が決まる…というのは現在にも通用する原則ですが、三州街道を下って三河に出る道筋はあまりにも遠く、剣路です。甲府から諏訪、そして伊那から飯田、更に山道が延々と続きます。こういう道でゲリラにやられたら補給がままなりません。

一方の駿河への道は富士川を下る方法があります。水運が使えますから大量輸送が可能です。

もう一つの理由は家康軍団と氏真軍団の団結力の差です。家康は一向宗の反乱を抑える過程で反対勢力を駆逐し、三河魂・三河武士と呼ばれる結束力の強い軍団をまとめ上げています。側近には酒井忠次、石川数正という老練な外交上手がいて、さらに戦上手の大久保党、若手の本多忠勝、榊原康正といった連中が周辺を固めています。大軍を動かして山中での戦となれば何が起きるかわかりません。当然のことながら今川義元の失敗事例は詳細に敗因分析をしていたはずです。

駿河は、氏真の下にまとまっているように見えますが、忍びの情報を元に今川の重臣に誘いをかけてみると、かなりの高い確率で調略(寝返り)が可能のようです。そうなると・・・三国同盟のもう一人、北条氏康が面倒です。北条が今川支援に乗りだせば、富士川の出口あたりで今川、北条から挟み撃ちになります。そうならないために、各種の仕掛けが必要です。今川討伐、駿河侵攻を決めてから三年かけていますね。情報が今川や北条に漏れないようにと、今川びいきの長男・義信を自決させ、今川からの嫁も駿府に送り返します。これが永禄10年のことです。そして軍を駿河に向けて発進するのが翌年の12月。

それまでの間に信長と同盟を結び、信長の娘を勝頼の嫁にし、家康とは今川領分割の密約を結ぶなど、外交に精を出します。更には北条、上杉をけん制すべく上州に兵を出し、陽動作戦を展開します。

武田信玄…強かな戦略家、政治家なのです。どこかで登場しますかねぇ。