万札の顔 第1回 渋沢栄一 WHO?

文聞亭笑一

二月のスタートと、異例ながらも今年の大河ドラマ「青天を衝け」が始まりました。

主役は渋沢栄一・・・薩長の活躍を中心とする維新物語では、敵役・徳川慶喜の家臣として登場しますから「悪い奴」ないし、悪役その他大勢の一人として登場するのがせいぜいでした。

ですから、その名前すらご存知ない方が多いと思います。

その渋沢栄一が、一躍注目されるようになったのは2024年に発行予定の「新・一万円札の肖像になる」という報道からです。

偽札対策も兼ねて3種類の紙幣の顔を入れ替えることになるようです。

一万円札・・・福沢諭吉 → 渋沢栄一   <教育者→実業家〉

五千円札・・・樋口一葉 → 津田梅子   <文学者→教育者〉

千円札 ・・・野口英世 → 北里柴三郎  <医学士→医学士>

お札の顔は、それぞれに生きた時代も、活躍した分野もそれほど変わることはありませんが、知名度という点では前任組に劣ります。

前任の三人は教科書に出てきますが、新人組で教科書に出てくるのは北里くらいなものでしょう。

その意味で、今年の大河ドラマは「万札の顔・PR映画」の役割も担います。

ところで・・・万札の顔、福沢諭吉の在任期間は長かったですねぇ。それほどの偉人とは思えないのですが、一世代前の紙幣トリオの時も「万・・・諭吉」「五千…新渡戸稲造」「千…漱石」でしたから二期続けて顔役を張っていました。その意味では賞味期限切れです。

永一の生誕地・血洗島

栄一の生まれ故郷・血洗い島は、埼玉県深谷市の北のはずれ、利根川沿いにあります。

そのままの地名で残っているところが、なんとなく物語性を感じます。伝説では赤城山のムカデと、日光山の大蛇が血で血を洗う戦いをした場所だとか、ヤマトと蝦夷との決戦の場所だったとか…

いろいろ言われていますが、地理的には大河・利根川の氾濫原にあります。何年かに一度は利根川の氾濫で、地が洗われる川中島地帯「地洗い島」がルーツではないかと言われます。

余談になりますが、島という地名は海に浮かぶ島とは限りません。むしろ、内陸部に多いのは川中島で大河の氾濫原や、川と川が合流する場所に多く見られます。私の故郷・海のない信州でも島内村、島立村など「島」が地名として残っています。

私の母の実家の地名は島内村青島です。上高地から流れ下る梓川と、木曽の山中から流れ下る奈良井川の合流地域です。青草の生い茂った川中島だったでしょうね。

栄一の生家は藍玉の生産と、養蚕で裕福な農家だったと言われます。第一回の放送でも、その様子が映されていました。・・・が、藍に関しては全く知識がありませんのでノーコメントです。

藍と言えば阿波・徳島の特産と思っていましたから、武蔵の国で作られていたというのが意外でもありました。どんな植物なのかとテレビ画面を注視しましたが、映像は里芋の葉ばかりを映していましたねぇ。

干して、叩いて、煮込んで藍玉にする・・・そんな工程を興味深く見ました。

養蚕の方は、私自身が養蚕農家の出身ですから良く分かります。蚕の成長に合わせて桑の与え方は変わります。

テレビ映像は「幼虫用の桑摘み」をして成虫に与えていましたね。あんな量で足りるわけがありません。繭を作る直前の蚕が食べる桑の葉の量は半端ではありませんよ。

蚕たちは眠らずに桑の葉を食べ続けます。朝、昼、晩、枝ごとの桑を与えてもぺろりと平らげてしまいます。桑畑は養蚕現場から離れた山の斜面にあるのが一般的でしたから桑刈は実に重労働でした。

江戸期の税制

栄一の家が、割に豊かだったのは税制の恩恵かもしれません。

公地公民、班田制度以来・・・税制は一貫して5公5民を正規の税率としてきました。

勿論、戦時、混乱時には税率が上がり、それがまた混乱に輪をかけます。戦国時代は6公4民などが一般的になり、秀吉の朝鮮役のころの北九州では、7公3民などというデタラメな税制が行われたようです。

武蔵の国は、古代から伝統的に税率が安かったようで、表向きの5公5民は稲作など穀物生産だけに適用され、河川敷などで作る藍などは無税とされるケースが多かったようです。

余談ですが、戦国期に北条早雲を祖とする北条家が5代にわたって関東を支配しました。

早雲の成長戦略の秘訣は税制です。

「北条が支配すれば4公6民になる」この噂が伊豆から相模、そして武蔵、上総、下総と広がり、農民たちの歓迎ムードが高まります。

関東管領・上杉家の武力と権威をもってしても、住民たちが北条を支援してしまいますから戦いになりません。

その北条を倒した秀吉が、石垣山でのツレション人事で家康を関東に移封します。

それまでの中部5州(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)に比べたら関八州(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・安房・上野、下野)は栄転に見えますが、統治するのは大変です。

前任の北条家の人気が高かった土地柄ですからねぇ。転勤で、前任者の人気が高かった後へは行きたくありません(笑)

家康が関東移封後にやったことは徹底した河川改修です。農業土木の大プロジェクトを始めました。南関東では二か領用水の開発で新田開発を進めます。

北関東では「利根川東遷」に着手します。勝手気ままに暴れまわる坂東太郎・利根川を、江戸湾流入から追いだし、鬼怒川と合流させて銚子に流すという大土木工事です。

こういう功績があればこそ、関東では「東照大権現様」と家康が尊敬されているのです。

関東の祭りは8月1日が多いのですが、これは家康が江戸に入った日「八朔」を祝います。

家康への感謝祭のようなものです。

渋沢永一は北関東・熊谷の百姓の生まれですが、私が住んでいる南武蔵、日吉村の、江戸から維新にかけての百姓たちは

「おれたちゃぁ、そんじょそこらの百姓とは違う。将軍様直参の百姓じゃ」

と胸を張って維新政府の役人に対峙していたようです。

明治維新の物語は、幕府を倒した公家や薩長を中心とする維新政府の目で描かれますが、将軍家おひざ元の関東人の受け止め方はかなり違ったようです。

維新の関東勢は体育会系の新撰組や、水戸の天狗党などが中心に描かれますが、渋沢、平岡円四郎、徳川慶喜の目で見たらどうなのか?

期待しながら見ていきたいと思います。