万札の顔 第11回 危ない栄一
文聞亭笑一
高崎城乗っ取りから、横浜異人館焼き討ちと・・・上手く行ったら「これぞ攘夷」と言う計画なのですが、血気にはやる若者たちが徒党を組んだところで、それほど簡単に成功は望めません。
「高崎城は警備が薄い」と言うのが計画の前提ですが、栄一たちの元に集まった90人ばかりの仲間の中で、高崎城内に入ったことのある者はいません。
内堀を挟んで城を眺めたことはあっても、内部がどうなっていて、武器庫がどこにあるかもわかっていないのです。
計画・・・と言いながら、計画になっていないのが栄一たちの「計画」でした。
高崎藩八万石
上州、今の群馬県には9つの藩がありました。最も大きいのが前橋藩で17万石です。
・・・ですが、前橋藩の殿様は川越にいて、お代官様による遠隔操作でしたから、上州の者たちにとっては存在感の薄い藩でした。
尤も、幕末のこの時期になると、前橋城が再建されています。
それに次ぐのが高崎藩8万石です。上州の藩としては前橋以上に存在感がありました。
続いて舘林藩6万石、沼田藩3,5万石、安中藩3万石、伊勢崎藩と小幡藩が2万石、吉井藩と、七日市藩が1万石です。
テレビでは毎回、北大路欣也が出てきて「こんばんは、徳川家康です」と創業当時の江戸幕府の解説をしていますが、関東各地は三河以来の徳川家臣団に、論考行賞として与えられたため、行政区画が細分化されています。
高崎城は、東海道を睨む小田原城と並んで、中山道を扼する江戸の防衛拠点です。
家康が関東に異動になった当初は、井伊直政が12万石で箕輪城に入りました。
直政は高崎に新城を築き、そこを「高崎」と名付けます。そういえば前橋も、元の名は厩橋(うまやばし)です。
その後、関ヶ原の功で井伊家は近江・彦根34万石に異動し、高崎の城主は頻繁に入れ替わります。
そして幕末、栄一たちが攻撃を計画した頃の藩主は大河内・松平です。この家の先祖には「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱がいます。
明治2年のデータですが、城下の人口は97,500人、藩士の数は家族を含めて3,900人の大都市です。
当時の石高と城下の人口は同程度のことが多いですね。5万石の藩なら5万人が城下に暮らしています。高崎の場合は商業が発達していましたから、平均よりも人口が多い方でした。
栄一から見たら腰抜け・・・かもしれませんが、1000人近い藩士・武士がいます。
栄一たちが、にわか仕立ての90人ばかりの兵で攻撃しても、乗っ取れる相手ではありません。幸運、僥倖が重なっても・・・、成功はおぼつかなかったと思います。
京から帰ってきた尾高長七郎の、必死の説得によって暴挙を思いとどまります。暴発していたら、まさに犬死です。犯罪者として処刑されていて「一万円札の顔」にはなり得ませんでした。
天狗党の乱
尊皇攘夷運動の元祖は水戸藩でした。教祖は徳川斉昭で、宣教師の筆頭は藤田東湖でした。
水戸藩の脱藩浪士たちが全国の藩を回り、尊皇攘夷の思想を布教して歩きました。
100年後に「安保条約が通れば戦争になる。徴兵制が復活する」と言って、安保騒動を起こした日本社会党に似ています。
この水戸浪士たちが起こした「桜田門外の変」が口火となって、全国に過激な攘夷運動が燃え上がります。
とりわけ京の都では天誅と称するテロ事件が相次ぎ、それを取り締まるために会津藩が京都守護として派遣されます。
♪ 鴨の河原に千鳥が騒ぐ あわや血の雨 涙雨
武士という名に命をかけて 新撰組は今日も行く
こんな歌がありました。何かの主題曲でしたか?? 相当古いですね(笑)
攘夷の本家・水戸の藩士たちも「薩長に任せては置けぬ」と立ち上がります。が、藤田東湖以来の攘夷派と、穏健派に真っ二つに割れて藩内抗争になってしまいます。身動きとれません。
焦った攘夷派は藩内の意見集約を放棄して、武田耕雲斎、藤田小四郎を中心に、攘夷を実行すべく1000人ばかりの兵を集め、筑波山に蜂起します。これが天狗党の乱です。
水戸藩、幕府とも、この反乱を放置できません。1万の兵で筑波山を包囲し鎮圧を開始しますが、「やる気」の差は歴然としていて、局地戦になると天狗党が優勢でした。
とはいえ、幕府軍には近隣の藩兵が次々に加わり、圧倒的な兵力と火力の差に天狗党は退却せざるを得ません。
武田耕雲斎、藤田小四郎は、教祖とも言うべき徳川斉昭が期待した「将軍後見職」の慶喜を頼ろうと、1000人近い兵を引き連れて中山道を京に向かいます。
当然のことながら、幕府は途中の藩に「反乱軍追討命令」を出します。
まず、最初に戦ったのが高崎藩でした。藩士36名が戦死するという激戦で、天狗党もかなり消耗します。戦死したというより、逃げだした隊員が多く出ましたね。
尊皇開国
徳川慶喜
坂本龍馬
尊皇攘夷
高杉晋作
西郷隆盛
佐幕開国
井伊直弼
勝海舟
佐幕攘夷
松平容保
近藤勇
高崎藩は、幕府の命令には実に忠実だったのです。ですから、栄一たちが計画を実行に移していたら、藩士たちの猛烈な反撃を食って、全員玉砕になっていた可能性が高いのです。
信州に入ってからは、諏訪藩、松本藩など、戦ったふりをして見逃す藩が殆どでした。
どの藩も幕府をとるか、それとも尊皇攘夷かと藩内の議論が割れていたのです。松本藩などは攘夷派が隊長になって討伐に向かっていますから、まるでやる気がありません。天狗党の応援に行ったようなものです。
天狗党800人は北陸道にまで出ますが、越前・敦賀で加賀藩に降伏します。
ここまで来れば、慶喜が自分たちに手を差し伸べるであろう・・・という期待があったのですが、尊皇ではあっても攘夷などは念頭にない慶喜は救援に動きません。
天狗党は単なる反乱軍として処刑される運命になります。捕虜になった者のうち半数近い350人が処刑されたといいますから・・・安政の大獄などより大規模殺戮でした。
徳川慶喜の思想信条は理解できないことが多く、歴史学者を悩ませます。強引に図式化すれば右図かもしれません。
維新後に本人が口を閉ざしますし、周りの者たちも朝廷や新政府、それに慶喜の心境を忖度して口を閉ざしますから、何を考えていたのかよく分かっていません。
「二心殿」などと仇名がつけられていますが、精神分裂症や異常人格者と間違われたりもします。
明治維新と言うのは・・・結局は「尊皇開国」でした。