万札の顔 第2回 お代官様

文聞亭笑一

今回のドラマの出発点になった深谷市血洗島辺りは、関東平野のど真ん中ですね。この辺りを旅していて不思議なのは、私の住むあたりよりも富士山が良く見えて、しかも大きく見えるのです。これは不思議でも何でもありません。私の住む神奈川県川崎と、深谷あたりは富士山への直線距離がそれほど変わりません。むしろ埼玉あたりは、近くに邪魔する山地がありませんから、山裾まで見えて・・・それだけ大きく見えるのです。 先入観というのは怖いもので、私などは鉄道や道路の距離で「富士山」を測ってしまいます。深谷から富士山へ向かうには、東京に出て、神奈川を経由していくのだから「遠い!」と思ってしまいました。

岡部藩

先週の番組では、岡部藩の代官がやってきて永一の父親に無理難題を吹っ掛け、賦役の削減を嘆願すると居丈高に権威を振り回していました。黄門様に出てくる「悪代官」ですね(笑)

岡部藩2万石は、城持ち大名ではありません。深谷市内の岡部に陣屋がありました。

さらに言えば、この藩は本拠地の武蔵の国には5千石ほどしか領地が無く、愛知県三河の半原に7千石、摂津のあちこちに8千石余りと飛び地ばかりの領地です。

これは藩の成り立ちに由来することで、元々は大名ではなく、5千石の旗本だったのが加増、加増で大名に出世した藩なのです。

岡部藩の藩主は安部氏です。元々は信州の名家・滋野一族の出で、諏訪神社の一党でした。

滋野一族と言えば真田家も同じで、安部氏も戦旗は「六文銭」を掲げています。

南北朝時代には南朝方に就き、諏訪氏と共に北朝方の小笠原勢と戦い、敗れて駿河の安部谷に逃れ、戦国時代は今川家に仕えます。

今川義元死後は、今川侍の多くが武田信玄に吸収されましたが、安部家は武田を嫌い、徳川を頼ります。同じ今川侍でも、武田滅亡後に徳川に編入された者たちより一歩先んじた分だけ、5千石という大旗本になりました。

関が原で手柄を立て加増、大阪の陣で手柄を立てて加増、その後は大阪城代を何度も務め、その都度加増されています。

一回の加増は2千石ほどですが、幕末には2万3千石ほどになっています。本拠地の武蔵・岡部は旗本時代の5千石だけで、三河の領地は関が原の手柄、摂津の領地は大阪の陣や、大阪城代になった褒美ですね。少ない藩士たちで、全国区で領地を管理しなくてはなりませんから、それほど出来の良い代官を揃えられません。とりわけ、計算上は1万石近くもある摂津の領地は集落単位に飛び飛びバラバラで、正確な税収など期待できません。そうなると・・・江戸に近い武蔵の領地に負担がかかります。 江戸時代の旗本の領地の多くは摂津、河内、和泉など関西方面にありました。

千石、二千石の単位では代官を置くわけにもいかず、村名主に任せていましたが、税収の半分近くをネコババされていましたね。旗本の生活が苦しくなった遠因です。

そのため旗本たちが共同で「取り立て屋」を雇って関西に派遣するということをしていました。

幕末三舟の一人、勝海舟の父親、勝小吉がその「取り立て屋」で活躍したと小説は書きます。

幕末三舟とは・・・勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のことで、将軍・慶喜の側近です。

妻沼聖天堂

渋沢永一の育った深谷・血洗島の近くに妻沼聖天堂があります。現在の住所でいえば熊谷市・妻沼ですね。国宝の立派なお堂が経ちます。お堂の総ての面に透かし彫りが施され、しかも極彩色で復元されていますから見事です。

「関東の日光」などとも呼ばれます。

徳川家の縁戚や、幕閣などの有力者がいたわけでもない関東の片田舎に、あれだけのものが建てられるとは…豊かな里であったことが想定できます。この辺りは広大な河川敷が広がります。

無税の河川敷で、藍の葉や桑の葉を育て商っていたのでしょうか。これからの春先、この辺りの利根川の河川敷内はボピーの花畑になります。

実に壮観ですねぇ。

将軍家の系譜

吉幾三が出てきて、12代将軍・家慶の役を演じます。東北弁で「オラこんなとこいやだ~」などと歌いだせば喜劇ですが、なかなかに良い演技をしていました。

徳川の将軍と言えば家康、秀忠、家光の3代目までは、夫々の功績と共に歴史の教科書に出てきます。

その後は、犬公方と嫌われた綱吉、そして暴れん坊将軍の吉宗、その後は慶喜まで飛んでしまうのが一般的です。

4代,6代,7代,9代,10代,12代あたりは教科書にも出てきません。

例外が11代の家斉で、この人は種馬のように子女を作ったことで有名です。

3代・家光の家系は7代までで途絶え、8代・吉宗は紀州藩から養子に入りました。

その吉宗が、自分の家系を残すために設立したのが御三家、一橋、田安、清水です。

御三家を作り、家斉が数十人の子孫を残したにもかかわらず、後継ぎが不在になるというのですから、現代人には良く分かりません。

伝染病が蔓延した当時の衛生環境や、大奥の女性たちが鉛分を多量に含んだ白粉を常用していたことの悪影響など、医学面での遅れが想定されます。

とりわけ江戸の町は飲料水の水質に問題があったようですね。

随分と後世の話ですが、大正10年から日本人の平均寿命が飛躍的に伸びました。

実はこの年に、日本の主だった都市の上水道が完備したのです。それ以来です、幼児の死亡率が激減しました。

平均寿命というのは言葉通り平均です。0歳の赤子と、百歳の長寿者が亡くなれば(0+100)/2=50歳になります。

ヒトケタ歳の死亡が減れば、平均寿命が飛躍的に伸びても不思議ではありません。

物語はこの先、永一と慶喜の関わり合いを基軸に進んで行くんでしょうが、幕末三舟は出て来そうにありません。

勝海舟は維新方との付き合いが多く。渋沢との接点がなかったかもしれません。

山岡鉄舟、高橋泥舟も官軍の江戸総攻撃の時に活躍していますから、接点なしですかね。

高橋泥舟が将軍・慶喜を諫めた歌と言われるのが

欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う

です。思うようにいかず、イライラ、ムシャクシャした時の頓服薬、清涼剤になります。