万札の顔 第20回 花のパルリヘ

文聞亭笑一

幕臣にはなりましたが、慶喜が将軍になってしまって、栄一たちとの距離は遥かに離れてしまいました。

一橋家という徳川グループの一子会社の経理部長・栄一と、社長の慶喜・・・と言った関係から、慶喜が徳川ホールディングのCEOになってしまい、栄一は親会社に移籍しましたが、一事業部の主任格と言った役割です。

一橋時代に面倒を見てくれた黒川は一橋に残って、そのまた上司だった原市之進は目付・将軍の参謀ですから雲上人です。

そんな中で「謀反の容疑者・大沢逮捕」の手柄を立てましたが、そんな仕事は栄一のやりたい仕事ではありません。

その大沢を江戸まで護送する役を喜作が引き受けて、こちらは多少、やり甲斐を感じていました。

二人は百姓から武士になっても国家の経営に参画したい栄一と軍事、武力こそ武士の役割と考える喜作

少しずつ・・・考え方に開きが出てきています。

それと・・・先週の大沢逮捕劇で大立ち回りのチャンバラがありました。あれは嘘です。

維新もので、新撰組が出てきて、しかも土方歳三が居て・・・、となれば・・・チャンバラですが、栄一も土方も、大沢も刀を抜いていません。

大沢は幕臣ですし、一緒の宿にいたのも幕臣です。

ですから陸軍奉行の命令で捕縛に向かった栄一に反抗するとなれば、明らかに謀反です、反逆罪です。

それほどの気力のある幕臣がいたのなら、徳川はもう少し長生きができました。

パルリはどうか?

パリ万博・・・Exposition Universelle de Paris の招待状がナポレオン3世からフランス公使・ロシュを通じて幕府に届きます。

当時、イギリスはエゲレスと発音していたのと同様に、パリはパルリと発音していました。

アルファベットはオランダ語読みが主流だったからかもしれません。

幕府は小栗上野介などが交渉を担当して、フランスから多大な財政援助と、軍事支援の約束を取り付けようとしていましたから、参加に「No」はありません。

誰を参加させ、何を展示するか、それだけのことです。

それよりも、小栗上野介が交渉していた借款契約で問題なのは、北海道を借金の抵当にする・・・という一項でした。

貧すれば鈍す・・・と云いますが、日本の近代化に先鞭をつけた小栗が国賊と言われる所以はここにあります。

浦賀ドック、製鉄所などは明治日本の躍進の原動力になりましたが、「国土を抵当にする」と言う発想は・・・日本史の中では彼だけではないでしょうか。

「従軍慰安婦」なる言葉を捏造し、自虐史観を宣伝するアサヒも国賊ですが、国を売るのは・・・小栗上野介が最初で最期でしょう。

栄一に慶喜の側近から呼び出しがあります。

最初はロシア製の電信機を扱ってみろ・・・という話でしたが、これは機械が故障してお流れ。

次に、幕府目付・原市之進からの呼び出しです。一橋の頃は部長と専務の様な関係でしたが、幕府に異動してからは10段階くらい身分差が付きました。直接会話できる相手ではありません。

「パリ万博使節団の随行を命ず」という内示です。

市之進の話しを聞くごとに、栄一の好奇心は沸き立ちます。「行きます!」即答ですね。

パリまでの日程

栄一がパリ行きの内示を受けたのは12月中旬、そして使節団一行28人が横浜を出港したのが、1月11日です。準備期間は一か月もありません。

栄一の役割は ①一行の旅費、滞在費など会計担当 ②代表である清水昭武の身辺警護など担当の水戸藩士たちと幕府・外国方の役人たちとの調整役 ・・・でした。

使節団代表の昭武は慶喜の弟ですが、長いこと水戸家で育ち、養子として御三卿の清水家に移っても、水戸以来の側近たちに囲まれています。このメンバー7人は尊皇攘夷の塊です。

一方の幕府外国方は、井伊直弼以来の開国派ですから正反対ですね。横浜で顔を合わせるなり、事々で衝突を始めます。

更に、栄一の部下として料理人や、髪結い師などが同行します。彼ら町人には町人の意地みたいなものがあって、一筋縄ではいきません。

1月11日  横浜出港 →上海 →香港 →サイゴン →シンガポール →アデン

スエズ運河工事中のため汽車で →カイロ →アレキサンドリア→

汽船で→マルセーユ

汽車で →

3月7日 パリ到着

3月24日 ナポレオン3世に謁見

平九郎を見立て養子に

見立て養子という制度があります。後継者が決まっていない者が、戦争や海外出張など、身に危険が及ぶ業務に臨む場合に適用される、一種の保険制度でしょうか。

万が一の場合にも家督が没収されることはなく、養子として登録した者が身分を相続できる・・・と云う制度です。

栄一のパリ行きもこの制度の対象になりました。栄一は直参旗本と言う立派な身分があります。

しかし、栄一に娘がいますが、男子の後継者はいません。見立て養子を立てておけば、いざという場合も家族に旗本・渋沢家の身分は保証されます。

当時の栄一の禄高がどの程度であったか? よくわかりませんが一橋時代には勘定奉行所の次官ですから、最低でも100石はあったでしょう。

直参になって、昇給はあっても減俸はないはずです。

さらに、海外代表団に参加しますから役料もつきます。年俸が数百石あったかもしれませんね。

これは栄一の出張中も国内給与として千代の手元に届くはずです。

「はず」と書いたのは、その後の激動で幕府が領地の半分が返納となったり、ついには消滅したりしてしまいますから・・・、多分、一文も届かなかったのではないかと想定されます。

・・・が、この保険、乗らないという選択はありません。

妻・千代の弟・尾高平九郎を見立て養子として登録しておきました。

養子縁組と言う重要なことですから、当然面談の上納得を得るのが筋ですが、なにしろ栄一は京都で平九郎も兄・新五郎も、妻の千代も熊谷です。

見切り発車の「とりあえず書類だけ・・・」のつもりでしたが・・・、これが平九郎にとっては、とんでもないことに巻き込まれる原因となりました。

今回の番組は、横浜港出立前のドタバタを中心に描くと思います。

養子の件もそうですが、僅か20日余りの間に、職人の採用や、金銭管理の公務、更に自分の身支度や、家督のことまでやるのですから、てんてこ舞いです。

それだけでなく、双子の兄弟のように二人三脚でやってきた喜作と別れ別れになります。熱血漢の喜作が暴走しないか、それも心配です。

何だ、かんだで、横浜からフランス商船に乗りこみます。