万札の顔 第3回 黒船来航
文聞亭笑一
栄一が父の商売に従って江戸に出ます。中学生か、高校生くらいの年齢でしょうか。修学旅行といった感じですね。始めて故郷を離れた時の印象は強烈だったと思います。
私なども小学校の修学旅行で知多半島に行った時の印象は強烈でした。。蒸気機関車でトンネルだらけの木曾谷を下り、6時間かけて名古屋に着いたときは、顔中煤で真っ黒でした。
仲間の殆どが、海を見たのは初めてです。
「うわぁ~ 海はでかいなぁ 向こう岸が見えねぇじゃんかい」
「そうずらよ、先生の言う通りだで、水平線が丸く見えるだじ。地球は丸いだねぇ」
「うわぁ~、海の水はしょっぺぇ!! 喉をやられちまっただ」
栄一が感動した江戸も「毎日がお祭りだ」というほどの賑やかさだったようです。
幕末もの、維新ものの大河では「ペリーの黒船」が日本の大きな転機として描かれます。
過去の大河で文聞亭が何を取り上げたか、振り返ってみました。
薩摩から見た維新
西郷どん(薩摩から見た維新)では幕府の慌てぶりを描きます。
幕府からの「藩主交代圧力」があって、島津斉興が詰め腹を切らされる形で引退した事は間違いありません。
幕府の主流派には「一橋慶喜を次期将軍に」という流れがあって、それを支える有力大名の一人として、島津斉彬に薩摩藩の実権を任せようという外圧を掛けていたことは事実です。
老中筆頭・阿部正弘、親藩水戸家の隠居・徳川斉昭、越前の松平春嶽などがその先頭に立ちます。
土佐藩主・山内容堂や宇和島藩主・伊達宗城なども主流派の仲間です。
彼らにとって最大の課題は、ゴローニン事件などのロシアを始め、中国でアヘン戦争を仕掛けているイギリス、躍進著しいアメリカなど、近海に出没する西欧諸外国への対応でした。
この外圧に対して「国力増強」「鎖国維持・攘夷」というのが幕府の基本方針です。
松前藩に任せっぱなしにしていた蝦夷地(北海道)に関心が向き、間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬などを派遣したのもこの時期です。司馬遼の「菜の花の沖」の舞台です。
更には将軍・家慶の病気のことがあります。次期将軍候補である嫡子・家定の精神障害、そのまた後継者選びと世継ぎ問題も抱えます。
そのためには、大封の有力大名を組織化し、一丸となっての沿岸警備が不可欠です。
ましてや、ペリー艦隊が沖縄に現れ、オランダを経由した来航予告などの噂があります。その沖縄を管理するのが薩摩・島津藩ですから、何としてでも薩摩藩を身内に取りこんでおかなくてはなりません。
そういう政治的環境の中で、島津斉興の頑迷さは厄介者だったでしょうね。
会津から見た維新
八重の桜(会津から見た維新)では国際派の人々の焦燥を描きます。
今までのやり方では乗り切れない時代がやってきている。なぜ、その現実に目を向けないのか。
黒船に弓や槍、刀で太刀打ちなど出来ない。武士の沽券では勝てない相手なのだ。そして、会津藩がそういう戦いに巻き込まれるのは、明日かもしれない。覚馬の胸は焦燥に焼かれていた。
黒船、蒸気船という西洋の科学技術の凄さを直接眼にした者と、伝聞でしか聞いたことのない者で温度差が出るのは当然です。
原発の問題がまさにそれで、放射能に汚染された地域に住んでいた人たち、その影響で計画停電を経験した人たち、そして、影響の全くなかった人たち…、この三者で意見が分かれます。
また、その三者の中でも意見が分かれます。
覚馬にしても、黒船が相手ではなく、同じ日本人である薩長と戊辰戦争を戦うことになろうとは、夢にも思っていなかったはずです。
人生はあざなえる縄の如しなどと言いますが、一寸先は闇でもあります。
長州から見た維新
花燃ゆ(長州から見た維新)でも、佐久間象山門下生の目から見た黒船を描きます。
黒船到来の第一報は、幕府から諸藩に正式に通達があったわけではない。
諸藩 夫々が手を尽くしてその変報を得た。長州藩の場合は、噂を聞くと共に霊南坂にある川越藩の藩邸に使いを走らせてこれを確認したのである。川越藩はたまたま浦賀警備を受け持っていたため、早く知った。
大事件です。
泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船)たった四杯で 夜も眠れず
という落首が有名ですが、当時の日本人にとっては天と地がひっくり返るような大事件でした。
・・・というのも、欧米列強が清国に対し理不尽な要求を突き付け、なおかつ、アヘンなどという毒物を持ち込んで清国を揺さぶっているという話は、当時の下町の長屋の住民まで知っている話でした。
「海賊が攻めてくる」という危機感は日本人全体を覆っていた危機意識だったのです。それだけに…反応は極端に出ました。
海賊船を、日本人は日本人の寸法で考えていました。
当時日本の最大の船は百石船です。ところが黒船はあまりにも大きい。想像を絶する…とはこのことです。
「海に城が浮かんでいる」と表現していますが、船というよりは要塞ですね。舷側に並んだ大砲の数に度肝を抜かれてしまいました。
…が、実際に見た者はほんのわずかです。にもかかわらず噂はあっという間に江戸市中に広がりました。
噂と言うものは誇張、膨張をしながら伝わる性質があります。
最近では放射能汚染の風評被害がその典型ですが、「放射能怖い」の思いが膨らんで異常なほどに、幻の影に怯えました。いや、過去形ではありませんね。現在進行形です。
黒船も同じです。旗艦のサスケハナで3000t程度ですから、それほど大きくはないのですが、20万tの大型タンカーほどに風評は膨らみます。
ペリーの肖像画というか、瓦版に載った人相書きというのは「鬼」ですね(笑)
下の絵は壱岐凧を描いた私の駄作ですが、兜に噛みついている鬼の人相とペリーの人相書きが良く似ています(笑)
松陰は駆けます。一目散に浦賀に向かいます。浦賀にはすでに佐久間象山が先着しています。象山門下というのは実証主義というか、科学的というか、現地・現物主義ですから噂を聞くと同時に現地に駆け付けていました。自分の目で見ない限り信用しないのです。
この瞬間から、黒船を見た瞬間から、佐久間象山は攘夷主義から開国派に転向しています。
そう言う点では哲学者というより科学者、政治家でしたね。松陰もそのタイプです。
「今回は良いとして、次回は必ず戦になる」と考えたのが松陰でした。勝つ方法を必死に考えます。
それをまとめたのが「将及私言」という藩主への直訴状です。これがまぁ、その後の長州藩の黒船対策の教科書になるのですが、四か国連合艦隊の下関攻撃の前には全く役に立ちませんでした。
松陰はあくまでも攘夷ですが、象山は早々に開国派に切り替えます。
観察眼の差でしょうか、数学が得意な象山と苦手な松陰の差でしょうか。
象山は「今戦っては負ける」と読みましたが,松陰は哲学優先で、陸上戦なら勝てると見ました。
これはペリーの船に乗り込もうとして、失敗した後の歌ですが
かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ大和魂
この熱気が松下村塾を火種として燃え広がり、維新へと燃え広がっていきますが、礼賛するわけにはいきません。
先日フランスの新聞社を襲撃した犯人、イスラム国なる旗を掲げて破壊工作をしている集団、いずれのテロリストたちも
かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬイスラム魂
ではないでしょうか。
一つの理念に凝り固まってしまう集団、それが自己増殖を繰り返していく現代、実に怖いですねぇ。オームもそうでした。まさに癌細胞です。
破壊工作を是とする団体に思想、信教の自由を与えるべきや否や・・・先進国に突き付けられた最後通牒ですねぇ。
ならぬものは ならぬのです(八重の桜)…と答えましょう。
昔書いた文章ばかりを引用して…今週は手抜きですね(笑)
栄一などの庶民から見たら「鬼が来た」という感じでしょう。鬼退治をするのはお侍の仕事で、俺たち関係ねぇ…だったと思います。
ペリーが日本に開国を求めてきた理由は「捕鯨のための水と燃料補給の要求」です。米国の捕鯨船が太平洋に進出し、小笠原諸島や、伊豆列島に寄港したがっていたのです。現在では捕鯨反対の旗振り国ですが、当時は世界一の捕鯨国がアメリカでした。
たまたま、岡部藩に幽閉されていた砲術家の高島秋帆と栄一の出会いがあったのでしょう。
秋帆から外国の情報は聞き知っていたのかもしれません。
今回のテレビでは高島秋帆は牢獄に閉じ込められていますが、実際は見張りがついていたものの領内を自由に歩き回れたようで、地元の若者に国際情勢や先進技術などを伝える機会もあったようです。幕府批判、体制批判をしない限りは自由に動き回れたようです。
また、渋沢栄一の「論語と算盤」を紹介します。