万札の顔 第18回 まさかの幕臣

文聞亭笑一

先週放映の後半で、栄一の得意とする経済分野での活躍が始まりました。

栄一の提案は

 良質な兵庫の米を藩が買い上げて、灘の酒屋へ直販する

 播磨で産する木綿(綿花)を藩が買い集めて商う

という二点のほかに、藩札の発行も加わりました。

更には、勘定奉行所、代官所のリストラも加わります。

藩による集荷と入札(いれふだ)

従来の一橋家の代官所は、年貢や御用金をとり立てるだけで、藩が領内の経済取引に介入することはしていませんでした。

これは一橋家のみに限らず、多くの藩のやり方でしたが、相場の上がり下がりで生産農家は買いたたかれ、投機商人だけが儲かるという経済構図を産んでいました。

幕末はどこの藩でも、経済改革と称して藩内の物資の集積を藩主導でやろうとします。

藩営の農協みたいなものを構想するのですが・・・、悲しいかな武家の商法、効果を上げた藩は少なかったようです。

相場、入れ札などの手法を勉強していなかったからでしょうね。

その点、関東で藍玉商売をやってきた栄一の商売感覚が生きてきます。

とりわけ関西では、相場操作が得意な大阪商人が安値に誘導した挙句に、生産者からの仕入れを買いたたきします。

農家は売り急がないようにと、団結して対抗しようとしますが、持ちこたえるための資金力がありませんから、零細農家から切り崩されて、結局は買い叩かれます。

ここに藩の資金を投入して、適正価格で藩が買い上げてしまおうと言うのが栄一の作戦です。

そして、相場が上がるまで売らない、藩の倉庫に蓄えて値上がりを待ちます。要するに商社を始めました。

これには従来の代官所の役人たちよりも、栄一が各地で集めてきた人材の中に、経済の分かる適任者がたくさんいました。

役立たずの代官所・役人はリストラ(非番)候補です。役人も・・・今までは威張っていましたが、非番になると基本給だけしかもらえません。

役料(職務給)がなくなりますから、食っていけません。武士連中も必死になります。

「関東の百姓上り」とバカにしていた栄一ですが、今や勘定奉行所頭取です。上司です。

藩札の発行

一橋家は藩札も発行せずに財政を賄っていました。

と、いうことは、「さすが御三卿」と言うのか、事業単位と言うよりも消費するだけの官庁と言う位置づけでした。

10万石の税収があれば、それだけで十分に賄えたのですが、代官たちの怠惰と中間搾取で、勘定奉行所にまで相応のお金が回ってきませんでした。

栄一は一橋藩の勘定奉行所・頭取の役に付きます。これは奉行の次のポストで「次官」と言った地位です。部下は100名、10万石企業の経理、財務部長です。

慶喜による大抜擢ですね。

藩が商社を始めるとなると、運転資金が必要になります。買い入れた綿花や米を保管して値上がりを待つには、巨額の運転資金が必要になります。

栄一は、これに藩札を発行して当てます。藩札は・・・現代で言うと紙幣の位置づけですが、実態は小切手、約束手形の類でしょうか。

当時、どこの藩でも藩札を発行していましたが空手形の恐れが強くて、信用がありません。

藩札が額面の「半値八掛け」などという藩もありました。要するに、現金の裏付けがないのです。紙くずになる可能性もあります。

栄一は「一橋の藩札は、すべて正金に替える」というのを大前提として、藩の在庫の綿花や米を担保に、大阪商人に現金を用意させました。

その分だけの紙幣、つまり「兌換紙幣」としての藩札を発行したのです。

この藩札の信用で資金を得て、栄一流の商社経営が順調に回り始めました。

一会桑政権と将軍の死

蛤御門の変から第一次長州征伐で、攘夷に凝り固まった長州藩を謝罪させました。長州の急進派の者たちも戦死したり、逃亡生活をしたりなどで、活動を停止しました。

攘夷を叫ぶ公家たちも追放され、孝明天皇の一橋慶喜への信頼が格段に高まります。

慶喜を頂点に、京都守護・会津藩の松平容保、京都所司代・桑名藩の松平  が中心となって、国政を切りまわす体制が出来上がりました。

一橋の「一」、会津の「会」、桑名の「桑」をとって、「一会桑政権」などとも呼びます。幕末の騒乱が僅かに小康状態を保つ期間でした。

しかし、安定は長続きしません。長州では上海で欧米による侵略、植民地主義の弊害を実感してきた高杉晋作が奇兵隊を組織し、攘夷ではなく開国倒幕の行動を起こします。

これは、幕府からすれば明らかな反乱です。第二次長州征伐となり、将軍・家茂が自ら陣頭指揮のために大阪城に入ります。全国の諸藩に動員令が出され、大阪の陣以来の大戦争が始まるはずでした。

またぞろ「こんばんは、徳川家康です」と北大路欣也が出てきそうですが、大阪の陣で、全国の大名たちが豊臣つぶしに出てきたときとの違いは、徳川の姿勢と言うか、方針と言うか、政権運用に信頼が置けなかったことです。

「開国か、鎖国か」この問題に幕府も、名代の慶喜も、答えを明確に出していません。

諸藩共に、藩の内部では「尊皇か佐幕か」「攘夷か開国か」の議論がなされていて、藩論が割れ、結論が得られていなかったのです。

反乱を起こした長州にしても、体制派の上士たちは幕府の顔色を窺いますが、高杉一派の奇兵隊は「倒幕開国」を鮮明にしていますし、薩摩も、土佐も、そして慶喜自身も「開国」の方向に傾いていました。

いや、「傾いて・・・」ではなく「決定して…」に近かったでしょうね。

世の指導者たちの意見は、その殆ど、いや全員が開国の大勢なのに「開国」と宣言できない、いや宣言しない理由はなぜか?

「尊皇攘夷」の運動が、あまりにも盛り上がりすぎて、国民運動として全国通津浦裏にまで広がってしまった結果ではなかったでしょうか。

藤田東湖、水戸烈公がアジテータとなって煽動し、水戸浪士の全国行脚によって拡散した、国民的盛り上がりの山火事の火が消せなくなってしまった結果のような気がします。

その責任も、水戸烈公の子・慶喜にのしかかってきます。

天狗党への、異常とも言える残酷な処刑は「いまや尊皇攘夷の時代ではない」と世に知らしめるためのものであったのかもしれません。

余談ですが、天狗党の350人もの首を切るのに首切り役を募集したところ、圧倒的に多かったのが彦根藩士でした。

桜田門外の変の敵討ち・・・だったとのことです。