万札の顔 第25回 商法会所

文聞亭笑一

オリンピックで3週間休み、再開して、すぐまたパラリンピックで2週間休み、話がどうなっていたのか、どこまで行ったのか、訳が分からなくなりました。

ヨーロッパから帰国して、故郷に戻り、そして再出発をするところまで行きましたよね。

若いころ、信濃路への商売の道すがらで詠んだ漢詩の一節「青天を衝け」を思い出し、再出発を誓います。

駿河府中70万石

徳川家が存続するにあたっては、勝海舟たちの幕末三舟の活躍もさることながら、和宮や篤姫といった江戸城大奥の影響が大きかったようです。

新政府の代表とも言うべき岩倉具視は和宮を利用した「公武合体」の推進者でもあり、和宮には借りがあります。

また、官軍の総指揮者である西郷隆盛は、尊敬する島津斉彬と共に篤姫を徳川家に送りこむ工作の担当者でした。

その意味で篤姫の依頼を断るわけにはいきません。薩摩の大久保や、桂など長州派は不満でしたが「大幅減俸の上で存続」となりました。藩主は徳川家達とし、慶喜は謹慎処分です。

駿河府中は「駿府」と呼ばれることが多いですが、明治維新後に徳川家が江戸から移ったときは「府中藩」と呼ばれています。

この地は家康が大御所時代を過ごした場所であり、その後は家光の弟・忠長が百万石で入ったりしますが、謀反の疑いで改易になり、ずっと天領として代官が管理してきた土地柄です。

またぞろ「こんばんは、徳川家康です」が登場しますかね。

府中藩中老・大久保一翁

栄一が一橋家に仕官してからの上司は平岡円四郎、原市之進と、いわゆる切れ者が続きました。

それが慶喜の好みかどうかは別として、ヨーロッパ留学中に将軍となった慶喜の参謀役に付いたのが大久保一翁です。

旗本・大久保家は徳川家設立当初からの名門・大久保家の末裔ですから、一翁も若いころから政権の中心で活躍していました。

11代将軍・家斉の小姓として江戸城に入っています。この人も「切れ者」です。

頭角を現すのは家茂が将軍になったころからで、勝海舟などの下級旗本を抜擢しています。

慶喜が将軍になると「大政奉還」を献策しています。幕府内では開明派の一人でした。勝などを通じて薩長との交流もあり、新政府からも信頼されていた一人でもあります。

「幕府の残党が駿府に集結して謀反などをせぬように…」そんな意図もあって、「新政府の目付」的な役割も担っての「中老(家宰)」でもありました。

栄一が駿府で謹慎する慶喜を訪ね「帰朝報告」をするにあたっては、大久保一翁の許可が必要になります。出発した時とは全く違う「ふるさと」に帰ってきました。

尊皇の人・慶喜

徳川慶喜についてのこれまでの評価は

幕府側からは・・・部下を見捨てて逃げた卑怯者、自己中の男

新政府側からは・・・小才はあるが、腹の座らぬ優柔不断な男

・・・と、いずれもパッとしません。

しかし、今回は近くで仕えてきた渋沢栄一の観方を取り入れたようで「尊皇・勤皇の人」として描きます。

ドラマの前半でも父・斉昭が「天子様には逆らうな、我が家は尊皇の家である」と、くどいほど慶喜に言い聞かせていました。その、「父の訓えに忠実に従った生き方」として描きます。

謹慎中は誰にも会わぬ…と、頑なに孤独を貫いたのも、自分が動けばそれを利用する輩が現れるという警戒心だったとも描きます。そうかもしれません。

帰朝報告

栄一が駿府を訪ね、ようやくにして慶喜に面会できたのは4日目、12月23日です。

慶喜は徳川家の菩提寺・宝台院で謹慎していました。藩士の警護もなく、警護していたのは江戸火消しの新門辰五郎一家です。

また、港や街道筋の警護をしていたのが清水次郎長一家ですから、藩を上げて「武装解除」「無抵抗主義」といった雰囲気だったのでしょう。

昭武からの手紙、報告書は到着した初日に大久保一翁に渡してありますから、その日のうちに慶喜に渡ったはずです。三日もかかったのは・・・栄一の処遇に関して、慶喜と一翁の間で調整が行われたものと思われます。

栄一の予定では慶喜からの返事を受け取り、それを水戸の昭武に届け、その後は江戸か、横浜に出て商いを始める心算だったのでしょうが、その計画の「危険」を察知していたのが、慶喜や一翁です。

栄一が水戸に行けば、ヨーロッパで共に苦労し、信頼してきた栄一を昭武は手放すまい。側近として藩の改革をさせることになる。そうすると・・・ただでさえ過激な水戸藩士が黙っていまい。暗殺される。そうさせないためには、水戸には行かせない。

駿府徳川藩で召し抱えてしまう。栄一の得意は経済だから、勘定方にポストを・・・といった相談です。

そうとは知らない栄一は、とうとうと帰朝報告をします。謹慎中であることを忘れて、慶喜も笑顔で膝を乗り出します。鉄道やカンパニーなどの話に時を忘れます。

商法会所設立

駿府藩勘定組頭・・・という慶喜、大久保一翁からの辞令を蹴って、栄一はカンパニー・商法会所の提案をします。

銀行と商社を兼ねたような機能ですが、藩や民間から資金を集め、産業を育成する…という事業です。藩の監督下で、自分を責任者にして始めようと提案します。

半官半民の、いわゆる「公社」のような形態でしょうか。

出資者は、成果配分に期待する株主的な投資者と、定期的な安定した利子に期待する預金者に分かれます。民間から募ります。

大久保も、勘定頭の平岡も、栄一が建白魔であり、一橋家では提案したことを必ず成功させてきたという評判を聞いています。

「書類にして提案せよ」となり、実行に入ります。

栄一の駿府での正月は、膨大な企画書づくりに明け暮れます。