万札の顔 第7回 安政の大獄
文聞亭笑一
北武蔵では、栄一がお千代さんにプロポーズなどをして長閑に時が過ぎていきます。
一方、江戸城内では次期将軍候補をめぐって水戸派と紀州派が抗争を始めます。
また、京の町では尊皇攘夷を掲げる長州や土佐の浪士たちが公家を抱きこんで倒幕に繋がる動きを始めています。
更に・・・薩摩の西郷吉之助も島津斉彬の名代として蠢動しています。
そして江戸でも、剣術の道場を中心に攘夷派の若者たちが幕府批判の動きを始めています。
尾高長七郎が入門した千葉道場には土佐の坂本龍馬がいましたし、そのライバル・桃井道場には長州の桂小五郎がいました。
さらに佐久間象山の門下にも勝海舟や橋本左内など、維新物語の主役になるような人物が多数集まっていました。
京や江戸の緊迫感と農村の長閑さの対比が面白くもあり、違和感を覚えるところでもあります。
徳川家定
家定という人は13代将軍になったばかりだというのに、後継者の話題が政府の中心議論になるというのですから相当な問題児です。
政治的期待はほとんどゼロに近く、14代が決まれば直ちに隠居させられる「つなぎ」の役割でしかありません。
病弱・・・と云われますが、いわゆる障害者で脳性マヒのような症状が出ていました。
家定に謁見が許されたハリスの日記によれば「将軍は発言をする際に、頭を後方に反らし足を踏み鳴らすと言う行動をとった」と書かれています。
これはアトテーゼ型障害の典型的な症状でもあります。
この障害は先天的なものと、幼少時に脳炎などに罹って発症する後天的なものがありますが、家定の場合は先天的というか、妊娠中に異常が出てしまったことが疑われます。
と言うのも、吉幾三が演じた12代将軍・家慶は14男、13女という大変な子宝に恵まれたのですが、その子供たちは皆、10歳までに死んでしまいました。
20歳まで生き残ったのは、家定ただ一人です。それも先天性を疑われる脳障害と言うのですから…何か?あります。
推測されるのは鉛中毒です。
この当時、舶来の化粧品が長崎経由で入ってきていました。
白粉は古来から使われていますが、植物性であったり、貝殻の粉末であったりと天然素材が多かったのですが、鉛を原料に作る白粉・鉛白は肌へ乗りが良く、白さも鮮やかです。
ただ高価ですから江戸城の大奥や、大名家、そして吉原などの遊郭、歌舞伎役者など富裕層に使われていました。
鉛が体内に吸収されると排出されずに蓄積され、臓器に異常をもたらします。
とりわけ脳と消化器系にたまりやすく、脳にたまれば脳障害、消化器系にたまれば臓器不全と早死にの原因になります。
経口摂取することが多いのですが、大人は摂取量の10%ほどが残り90%は排出できます。
しかし子供は50%貯めこんでしまいます。まして幼児は更に比率が高いでしょう。
家慶の子供たちが早死にしてしまった原因は、大奥の鉛白化粧品の多用が疑われます。
妊娠中の胎児にも鉛が溜まってしまいますからね。むしろ家定が35歳まで生き延びたのが幸運で、それは乳母の歌橋が鉛白白粉を使っていなかったからかもしれません。
鉛中毒が注目されたのは最近です。1980年ころ有鉛ガソリンが禁止になるまで、我々とて平気で鉛と付き合っていました。アスベスト〔石綿〕と似たようなものです。
何年か前の大河「西郷どん」の時の文書を引用します。
徳川幕府にとって当座の政治課題は黒船対策ではなく「将軍継嗣問題」でした。
この辺りが・・・現代も似たようなもので、北朝鮮の核問題よりも、「モリカケ」の方が重大事件になっています。
徳川幕府の主流派は譜代大名連合です。
譜代大名とは三河以来の徳川家臣団で、酒井、石川、本多、榊原、井伊、大久保などで「大きな領地は与えない代わりに、国政を任せる」という家康以来の伝統のもとに250年間、政治の中枢を担ってきた集団です。
それに対して、黒船来航以来、発言力を増してきたのが水戸の斉昭、尾張の家慶、越前の春嶽などの親藩と外様連合です。
親藩というのは徳川一族、外様の代表格は薩摩の島津、土佐の山内、宇和島の伊達ですね。
この二つの勢力のバランスを保ちつつ、慶喜擁立に動いていたのが老中筆頭(首相)の阿部正弘でした。
阿部は譜代大名の一員で、備後・福山10万石の当主、代々西の外様、浅野と毛利を睨んできた家柄です。
譜代の阿部が親藩外様連合と歩調を合わせていますから、井伊直弼を盟主とする譜代組も目立った動きはできませんでした。
阿部の死によって、譜代組の反撃が始まります。
「将軍後継者には紀州の徳川慶福を」と、大奥を動かします。
さらには大老職を手に入れてしまいます。「老中」というのは、数名の老中による集団指導体制で、そのリーダが「筆頭」です。一方、大老は大統領的・独裁権限を持ちます。
もう一つ、吉田松陰の妹を主役にした大河ドラマもありました。そこから引用します。
今回のドラマでは長州を是として描いていますから悪党・井伊直弼ですが、維新後の明治政府は怒涛の如く欧米化を進めました。
評判の良くない鹿鳴館を作り「猿まね」と哂われたのは松下村塾の門弟である伊藤俊助(博文)、井上門多(馨)達です。
井伊直弼が生きていたら「おい、おい、そこまでやるのかよ」とブレーキをかけたでしょうね。
こういうところが世論の怖い所で、一気に熱せられ、炎上して、一つの方向に突っ走ります。
これを日本人の特徴、弱点と自虐的に言う学者もいますが、別に日本人に限ったことではありません。「アラブの春」もそうですし、中東で暴れまわるテロリストたちもそうです。
これは群れを作る人間の、いや、群れで生きる動物たちの習性で、危機感を感じるとパニックに陥りやすいのです。
鯨に狙われた小魚の集団が防衛のために群れになってかたまり、かえって一網打尽に食われてしまう姿に似ています。
井伊直弼が歴史に果たした役割は
1、列強との軍事対決(攘夷)を避けたこと
2、幕府(佐幕)か、朝廷(尊皇)か、という政権の選択肢を明確にしたこと
だという学者もいます。
政権選択に多くの国民が関心を持ったという点では、民主主義の草分けかもしれませんね。
佐幕派も尊皇派も「この国のかたち」を明確に打ち出し、広く、国民に信を問うという最初のケースだったかもしれません。
橋本左内の構想とは、一ツ橋慶喜を将軍にし、首相格に松平春嶽(越前)、徳川斉昭(水戸)、その下の大臣格に島津斉彬(薩摩)、伊達宗城(宇和島)、山内容堂(土佐)、鍋島閑叟(肥前)、ら有力大名を配し、更に官僚として語学や経済・外交のわかる官僚を配した、挙国一致内閣を作ると言うものであった。
幕末史 半藤一利)