万札の顔 第21回 パリ万博
文聞亭笑一
横浜を出港して以来、栄一にとっては見るもの、聞くもの、触るもの・・・すべてが新鮮でした。
早速、フランス語の勉強を始めるのですが、船旅に読書と言うのは・・・ご他聞に漏れず、船酔いの原因になります。横浜を出港して上海までの期間は、かなりきつかったようですね。
しかし、船酔い程度でめげる栄一ではありません。船内をくまなく巡回し、西洋文化を味わいます。ついでに機関室まで覗きに行って、蒸気機関の凄さ、偉大さを目の当たりにします。
この驚きはスエズ運河の建設現場でさらに大きな感動になります。
「西洋の技術は・・・凄げぇ!!」
蒸気機関
(写真;ワットの蒸気機関 Wikipedia)
蒸気機関は栄一たちの時代より100年前、1769年にジェームス・ワットが発明しますが、1800年にワットの特許権が切れるまで、あまり利用されませんでした。
理由は汽缶の爆発事故が多かったため、ワットが低圧汽缶にこだわったためで、大きな出力、馬力が得られないままでした。そのため応用分野が狭かったのです。
特許が切れると「待っていました」とばかりにリチャード・トレビックの高圧蒸気機関が出現します。
ここから交通機関に応用が始まり、1807年にフルトンの蒸気船が出現し、さらに1825年にスチーブンソンの蒸気機関車がデビューします。
ヨーロッパは産業革命の真っ盛り、そんな真只中に鎖国の夢の中から使節団が万博会場を見物するのですから、驚きを通り越して驚愕・・・魂消た!・・・魂が消える、過去の知識が雲散霧消してしまうほどの衝撃だったと思います。
使節団の集合写真です。
昭武を中心に、その周りを固めるのが水戸の攘夷武士。左右に幕府の役人が連なり、後列一番左に栄一が映っています。
前列の両サイドはフランス政府役人か、それとも通訳か?
「使節団一行」と言いますが、実は使節団は3つ、いや、4つの派閥に分かれます。
幕府・外国奉行派 ・・・どちらかと言うとイギリス贔屓、フランスに消極対応
幕府・小栗派 ・・・フランスから借款を求める交渉団
昭武と護衛の水戸藩士 ・・・コテコテの攘夷派7人の侍 日本式にこだわる
栄一ほか、髪結いなど用人達 ・・・幕府組と水戸組の揉め事仲介役
ともかくも、パリまでの船内から揉め事だらけで、栄一は休みなしです。
例えば、ボーイが料理の皿を持って来て昭武の前に置こうとする・・・ケシカラン、無礼者!
やる事なすこと…やかましいSPたちで、そのくせなにもわかっていない、わかろうとしない面々ですから、栄一が仲裁、調整しないと飯も食えぬし、トイレも行けない・・・洋行の邪魔をしに行った面々とも言えます(笑)
薩摩との外交戦争
パリ万博は幕府が招待を受けましたが、薩摩藩と佐賀藩は自主的に参加をしています。とりわけ薩摩は「幕府と同格のニッポン代表である」と名乗り、ヨーロッパでは外交上必須の勲章まで用意していました。
大久保一蔵の意を受けた五代才助が仕切っていますが、手回しの良さは幕府など足元にも及びません。
「薩摩琉球国」と独立国の体裁を取っていますね。
幕府側は慌てます。日本代表としての主導権争いと言うか、薩摩に先手を打たれてしまいました。
早速、本国に連絡をして「葵勲章」なるものを企画します。しかし、維新当時の通信事情で、デザインを送り、製作するとなると最低でも3か月はかかるでしょう。
勲章外交という点では、完全に薩摩に一本取られました。
しかし、幕府と薩摩のさや当てをよそに、万博の日本ブースで人気があったのは、 江戸の商人 清水卯三郎が出店した「お茶屋」でした。
日本式の部屋で、江戸柳橋の芸者が三人、独楽を回したり、キセルを器用に扱ってみたりと・・・ごく普通の遊びをするだけですが、物珍しさに人が集まり、新聞・雑誌にも多く掲載されました。
どうも、パリ万博一の人気だったようです。
万博の清水卯三郎のパビリオン(お茶屋)
同様に、使節団一行の「丁髷」も珍しがられましたね。栄一はじめ、使節団の殆どは洋行中に髷を切りましたが、7人の侍は頑として切りません。
慶喜包囲網
さて、国内はいかに・・・ですが、孝明天皇の突然の死去は慶喜にとって大誤算でした。
孝明天皇の信頼をベースに公武合体政府に変えていこうとした慶喜の目論見に、「薩長中心新政府構想」と幼帝を擁して「王政復古」を狙う公家衆が対抗します。
慶喜にとって辛いのは公家たちに味方がないことで「玉」明治幼帝を岩倉具視などの公家たちに握られてしまいました。
勅書や錦旗は・・・薩長の手に渡りました。政治的に敗けです。