万札の顔 第5回 地も人も大揺れ

文聞亭笑一

前回の放送では栄一の姉が「狐憑き」になり、修験者たちが家に乗りこんでくる・・・と云う場面がありました。

現代人は「迷信だ。バカバカしい」と切って捨てますが、意外に昭和の時代まで、この種の民間信仰が残っていました。

現代の日本人、とりわけ団塊の世代以降の方々は戦後の「科学万能教育」を受け、核家族で育ったでしょうから信仰の世界とは無縁でしょうが、私などは祖父母と一緒に寝起きして、戦前的文化の中で幼少期を過ごしましたから、それなりに宗教的雰囲気は記憶しています。

家長である祖父や父は、朝晩の食事の前に神棚に拝礼し、仏前で般若心経を唱えていました。

我が家は禅宗(妙心寺派)でしたから般若心経ですが、宗派によってお経は違いますね。

夕食時になると、近所からは「南無妙法蓮華経」の団扇太鼓の音も聞こえていました。

小学校に入学した頃から「お前は長男、後継ぎだから・・・」とこの拝礼につき合わされて・・・それが家を飛びだそうと決心した一因にもなりましたね。

戦前までの日本、農業立国であった日本では「天候こそが業績の総て」でした。

如何に人智を傾けようと、冷夏では米はとれません。日照りが続けば畑作ものは枯れ果てます。水道どころか用水路さえ十分には施設されていない時代でした。

ましてや栄一の青春時代、江戸時代末期の北武蔵、天候の順なることを神に祈ります。

家ごとの日々の祈りもさることながら、集落単位、村単位での「講」が盛んでした。

講の寄り合い

村の会議体と言うのか、情報交換の場は「講」の「寄り合い(集会)」でした。

村々によって色々な講が開かれていました。代表的なものを拾ってみます。

庚申講・・・

庚申(かのえさる)の日には、体内に巣食う三尸(さんし)の虫が、その人の睡眠中に体を抜け出し、閻魔様に自分の宿り主の「悪事を報告する」と信じられていました。

そんなことをされたら地獄行きですから、庚申の日には眠らずに一夜を過ごします。

村の当番の家に集まり、ドンチャン騒ぎをして徹夜します。

私の住む南武蔵では、随分盛んだったらしく北加瀬村には3集落しかないのに7つも庚申塚があります。

念仏講・・・

浄土宗の門下に多いようですが、定期的に集まって念仏会を開きます。

お寺に集まってやればよいのですが、お寺は何かと戒律があります。般若湯や肉料理を許してくれないことが多く、下世話な相談ができません。

そこで、檀家持ち回りの自主勉強会「念仏講」を開きます。念仏を唱え、村の会議をして、後は無礼講。

こういう時の講元の名物料理が屋号に残ったりします。「鍋屋」「寿司屋」

参拝講・・・

村を代表してお伊勢様や、霊山、本山などに参拝する代表者を決める会です。

代参講とも言いますね。代表になると旅費交通費は講のみんなが出してくれます。

代参した者は、お札や土産物を講の家に届けます。

頼母子講、無尽講・・・

村落の相互扶助金融?でしょうか。掛け金を積み立てて、冠婚葬祭などの物入りの時に、講のメンバーが相談、くじ引きで受給者を決めます。

民間金融、信用金庫かサラ金のようなもので、昭和10年時点で全国に30万講あったようです。

このシステムが発展したのが富くじ、そして宝くじ。

宝くじの胴元は第一銀行(現みずほ銀行)です。栄一の作った銀行です。

その他にも「えびす講」などが各地に残っていますね。

栄一の姉の「狐憑き」は・・・多分、うつ病の一種でしょう。

婚約が破談になり、落ち込んでいるところに周りのお節介が重なり、ヒステリー症状が出たものと思われます。

西洋医学が入ってくるまで日本には「精神病」と言う科目、病名がありませんでした。

安政大地震

日本は震災列島ですから、ある周期で大地震に襲われるのは覚悟するしかありません。 とは言うものの、この170年前の地震のような、複合地震は嫌ですねぇ。

水戸の烈公が最も頼りにしていた、参謀の藤田東湖が地震で倒れた建物によって圧死してしまったのは、上記の表の最後にある安政江戸大地震です。

とりわけ揺れの激しかったのが江戸城より東、千葉寄りの地域でした。水戸藩の藩邸の辺りは揺れの最も激しかったところです。

更に、この地域は家康が江戸に入る前は利根川の本流が流れていた地域です。

隅田川と言うのは家康以前に利根本流だった痕跡です。堆積土が多く、地盤が緩い上に、液状化も起こりやすい地域でした。

余談ですが、利根川は家康の命で伊奈忠治が東遷の工事を始め、親子三代かけて銚子・犬吠埼へと流れを変えました。

まずは隅田川の筋を締めきって、江戸川の筋へ流れを変え、それをさらに上流の関宿で締切り、鬼怒川と合流させて東に追っています。

関西では不人気の家康ですが、関東では案外、人気があります。

江戸の町の建設、関東平野の開拓など、土木事業の成果が大きかったからでしょう。

家康の三大土木事業とは「利根川東遷」「玉川用水(江戸の上水道)」「二か領用水(南武蔵農業用水路)」を言います。