万札の顔 第9回 栄一江戸へ
文聞亭笑一
「徳川300年」と、切の良い数字で呼びならわしますが、徳川家康が豊臣政権から天下を奪ったのは1600年の関ヶ原の戦です。
何とも覚えやすい年で、数百年後の受験生にとってはありがたいことでした。
・・・が、さすがに300年はもちませんでした。15代・慶喜が大政奉還したのは1867年ですから、徳川の政治は267年間です。
それにしても・・・267年間とは、気が遠くなるほど長い年月です。一代を30年としても9代になります。これほどの期間、同じ体制が続くということは「鎖国」によって生じた「外的刺激がなかった」ためでしょうか。
関東では「東日本大震災の記憶が風化した」などと言いますが、いまだ・・・たったの10年です。
関西でも「阪神淡路大震災」から25年に過ぎませんし、安保闘争からも60年、終戦・敗戦からも75年です。
267年間の間に、徳川幕府の機構がいかに変遷していったのか、そのあたりに長期安定政権の秘訣がありそうですが、「封建性」の一言で済ませてしまうあたりが文系学者の非科学性だと思います。
社会科学・・・などと言いますが「科学」していませんね。 科学の原点は「あるがままに見る」・・・ことで、思想・信条などを挟んではいけません。
公武合体
三百年近くに渡り、政治の中心から外されてきた朝廷、公家社会が復権できるチャンスがやってきました。
源頼朝に政権を奪われて以来、700年近い武家社会が続いていました。
政権を執らない国家君主、象徴天皇と言うのは鎌倉幕府から始まったことではないか…と思うのですが、歴史学者の誰もそんなことは言いません。
私の雑駁な歴史観では、日本史は4つに分かれます。
???-450の大化の改新 神話の時代、原始首長制の時代
450-1200の鎌倉幕府設立まで 公家(藤原家)の時代 貴族政権
1200-1945の敗戦まで 武士(軍人)の時代 軍事政権
1945-??? 民主主義と言う・・・混迷の時代
そういう見方からすると、尊皇攘夷も維新も、同じ価値観の時代の、政権争いに見えてきます。
「公武合体」を提唱したのは岩倉具視と言われています。この人も「お札の顔」になりました。5百円紙幣でしたか? 5千円紙幣でしたか 「5」のつくお札は記憶に残りません。
公武合体・・・日本史の中で、日本の政治改革の中で、何度も何度も繰り返されてきた「妥協案」です。
「妥協」が、宗教的、哲学的、伝統的流れと・・・実力や大衆人気とを調整してきました。
伝統的な権限のイメージとしての上下関係は、万世一系の帝・・・東照神君以来の・江戸幕府・・・大名・お殿様、そして士農工商と続きます。
「光る帝」を使って、政権奪取を試みたのが岩倉具視という下級公家でした。
武家社会の混乱と、江戸の幕府の統率力の衰えを見切り、「倒幕」を仕掛けたのです。
岩倉具視は、公武合体・・・和宮と徳川家茂の婚姻を仕掛けます。公家、朝廷の発言力を高めるための方策でしたが、一方では尊皇か攘夷か、開国か鎖国かという世情に、朝廷が主導権をとろうという思惑もありました。
岩倉は「攘夷」などは考えていません。むしろ開国派です。
「薩長や田舎者の、無学な餓鬼どもに任せてはおけぬ」
と、自らの計画を推進します。
和姫の江戸行きの道中は中山道経由になります。万一の事件や事故、見物人の目を避けるためもあって、人通りの多い東海道を避けました。
栄一、江戸へ
昨日、「大阪では、コロナの新規感染者が千人を越えた」と言うニュースが繰り返し流れています。吉村知事が頑張ってきていたのに、残念です。
コロナ感染も、思想感染も、実に似たようなものです。若者中心に広がります。若者にとって「自粛」と言うのが無理な相談ですし、無症状であるのが・・・お手上げです。
バイキンをばらまいている自覚はありません。尊皇攘夷も・・・似たような菌です。
江戸からの情報は、江戸の千葉道場で修業中の義兄・長七郎からもたらされます。水戸の攘夷浪人による「井伊大老暗殺事件」などは、幕府に対して公然と弓を引く事件ですから、社会の大混乱を予測させます。「何かが起きる」と感じますし、「何かしなくては・・・」と意気込みます。
意気込んでも、金がなければ身動きとれませんが、渋沢家は藍の商売で蓄えた資金があります。栄一が江戸に遊学する旅費などに苦労することはありません。
「学問を極めるために・・・」と言うのが建前で、「攘夷運動に参加したい」と言うのがホンネ、そう言う・・・江戸への遊学です。
栄一は海保漁村の儒学塾「掃葉軒」に入ります。
海保漁村は安房里見家の流れですが、当時の一流の儒者です。官からの誘いは全く受け付けず、もっぱら庶民を対象にした私塾に徹します。
現代でいえば、国立大学からの「教授」の誘いを蹴って、中学の教師を続けると言った感じの塾だったようです。
エリート教育よりも庶民の知的レベルの底上げが大事・・・と云うのが信条だったようですね。
栄一は儒学塾で論語を学び直します。後に「論語と算盤」を書きますが、論語の実用化というのか、より「実学としての論語」へと彼なりの解釈にまで理解を進めていくのは、この時の遊学の成果なのかもしれません。
それよりも、栄一が情熱を燃やしたのは、お玉が池・千葉道場での剣術の稽古です。剣の腕を上げるというのも目的の一つではありますが、それよりも攘夷の風をに乗り、開国路線を進める幕府への批判に情熱を傾けます。
お玉が池・千葉道場は、創業者の千葉周作が水戸藩の剣術指南であり、息子の栄次郎がその後を継いでいます。尊皇攘夷の大本山・水戸藩の東京出張所のような位置づけでもありますから、攘夷思想の巣窟でもあります。
この雰囲気に、若い栄一が乗らないはずがありません。60年安保、大学紛争の時代の全学連こそ、千葉道場をはじめとした剣術道場でした。
こういう議論は、すればするほどに過激化していきます。井伊大老暗殺で、彼らの意識としては「組織的テロ」が正当化されてしまいます。「邪魔者は殺せ」という無法が正当化されます。
栄一は、何度かの江戸遊学を繰り返すうちに「高崎城乗っ取り、横浜異人館襲撃計画」なる…とんでもない過激計画を企むようになっていきます。