万札の顔 第10回 革命家たち

文聞亭笑一

若者たちが「体制」に対して抵抗した歴史は、世界史の中に数限りなくあります。

成功した事例を「改新」とか、「革命」とか、「改革」とか、「維新」とか呼びます。

失敗した事例を「乱」とか、「変」とか、「反乱」「騒動」とか呼びます。

呼び方が違うだけで、弱体化した体制派に対して抵抗勢力が反乱を起こし、暴力的騒動に発展してしまうことを言います。

現在、ミャンマーや、香港で起こっているデモ隊と政府、軍、警察との乱闘も、数千年以来の歴史の繰り返しです。

日本では60年安保と、それに続いた学園紛争以来、名前に残るほどの騒動は起きていません。

それがまた…平和ボケを加速して、選挙における低投票率・政治的無関心になっています。

国民の政治的無関心を誘発しているのはマスゴミで、選挙をする前から「予想」を垂れ流します。

「無風選挙区」などと対立候補をバカにした記事が平気で流れ、候補者に「泡沫候補」などとレッテルを張っても、マスゴミ様のすることは人権侵害にもならないという不思議さです。

さらに、競馬か、それとも競輪か、当落予想情報を垂れ流します。選挙の前日に「結果予想」を流すなどは、選挙民に対して投票に行く気を失わせる「誘導」をする行為とも言えます。

マスゴミに言わせると「蒙昧なる選挙民に、選挙の大切さを指導する」とか嘯き、上位目線で記事を書いているようですが、国民個々の意志を無視していますね。

マスゴミは自分たちの価値観を国民に押し付けようと、テレビ、新聞を通じて躍起になっています。嘘をついてまで、それを実行している「朝日」「毎日」などは犯罪者の匂いすら漂います。

密貿易

薩長が維新を推進した原動力、財源は・・・実は密貿易でした。

薩摩は沖縄を隠れ蓑にして海外貿易を行っていました。国家老の調所庄左衛門が沖縄で行わせていた密貿易はかなり大胆で、島津斉彬が反射炉をはじめとした西洋式武器を作る工業団地を建設する資金や、西郷吉之助が京都で公家工作をする資金源となっています。

また、薩長を中心とする官軍が新式銃を大量に調達できたのも貿易ルートを確保していたからです。

長州も下関を根城に博多、小倉の商人と結託し、朝鮮経由の取引を「黙認」と言うより「推奨」していました。

麻薬もそうですが、禁じられている商売程、利益は大きくなります。濡れ手に粟・・・と云うほど儲かります。

そう言う資金源があればこそ、薩摩も、長州も、京での公家工作にふんだんに賄賂が使えたのです。

明治維新で薩長、志士たちのやったことの95%は違法行為ですが、その最たるものが密貿易でしたね。

一方の幕府ですが、長崎港を開港して海外貿易を専売にしていたのにもかかわらず、薩摩以下の関税収入しか出せていませんでした。

後に渋沢栄一が「幕府を潰したのは幕府である」と論破した通り、長崎奉行所には商売感覚がまるでなく、欧米からの情報入手も怠っています。

オランダ領事館から「アメリカが(黒船が)江戸湾に直談判に行く」と何度通告されても何の対抗処置も採らず、浦賀に侵入されてから慌てています。

資金力の差が、結果的に政権の趨勢を決めることになります。これはいつの時代でも言えることですね。

維新の革命家たちの群像

松陰は革命の何者かを知っていたに違いない。

革命の初動期は詩人的な予言者が現れ、「偏癖」の言動をとって世から追い詰められ、 必ず非業に死ぬ。

松陰がそれにあたる。

革命の中期には卓抜な行動家が現れ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。

高杉晋作、坂本龍馬がそれに相当し、この危険な事業家もまた、多くは死ぬ。

それらの果実を採って、先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能な形で革命の世を作り、大いに栄達するのが処理家たちの仕事である。

伊藤博文がそれに当たる。

松陰の松下村塾は、世界史的な例から見ても極めてまれなことに、その三種類の人間群を備えることができた。

                 (司馬遼太郎)

司馬遼太郎の史観ですが、「なるほど」と思う部分があります。

そう言えば昨年の大河ドラマの主役たちも、3種類の人間像に分かれました。

信長が 蒸して搗きたる天下餅 秀吉丸め食らうは家康

昨年の主人公・明智光秀は信長から秀吉への橋渡し、餅つきの手返し役でしたね。

4年前の維新もの「吉田松陰の妹」が主役の「乱に咲く花」から引用してみます。

幕末維新の先駆者は「攘夷」を唱えた水戸藩の藤田東湖であり、そのスポンサーであった徳川斉昭です。

そして全国を遊説して歩いた水戸藩の脱藩浪士たちでした。

それに呼応したのが、大名では四賢公と言われた松平春嶽、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城でしたし、思想家では吉田松陰、橋本左内などです。

栄一たちはだんだんと過激になっていきます。江戸も、京も騒然としてきて、しかも活躍しているのが下級武士であったり、新撰組のような農民出身の剣士であったりと聞くと、「俺たちも何かしなくては・・・」という焦りのような感覚にもなります。

お尋ね者・長七郎

尾高長七郎は栄一の妻の実家・尾高家の次男、栄一にとっては従兄であり、義兄でもあります。

この人は千葉道場でも一二を競うと言われたほどに剣の腕が立ち、水戸浪士たちによる過激なテロ事件にも参加したことがありました。

それもあって、坂下門外で安藤老中が襲撃された事件では「犯人の一人」として幕府から指名手配されます。

実家に逃げたと知り、捕縛のための幕吏たちが深谷へと向かいます。事前にこの情報をキャッチした栄一たちは、長七郎をかくまうべく、藍玉の商売で取引のある信州・佐久へと長七郎を逃がします。内山峠越えの、栄一の商売の道でしょう。

その長七郎をかくまい、そして京へと逃がしたのが佐久の人・木内芳軒です。

この人は漢詩を得意とし、今でも佐久に記念館があると言いますから、かなりな文学者ですね。

京へ逃がすにも、そういった文学者の伝手を辿って、幕吏の目から逃れたのでしょうね。

長七郎が生き延びたことで、京での見聞を基に、栄一たちの無謀な「高崎城乗っ取り、横浜外国人襲撃計画」をやめさせます。

そのおかげで、栄一は昭和まで生き延びました。