万札の顔 第13回 一橋家家臣・渋沢栄一
文聞亭笑一
渋沢栄一と喜作は京の都に上ったものの、いわゆる「8月の政変」で長州勢と攘夷派の三条実美以下、七卿が追い出された都は、薩摩と会津、それに新撰組が治安維持をする戒厳令下にありました。
以前とは風向きが変わっていて「攘夷」が変質してきていました。
「高崎城乗っ取り」「横浜異人街焼き討ち」という栄一たちの旗印を宣伝に使える状況ではありません。
追い討ちをかけるように長七郎が幕吏に捕らえられ、栄一たちもお尋ね者になります。
このピンチを平岡円四郎との縁に救われます。奇跡的とも言えます。
一橋家10万石
一橋、田安、清水・・・8代将軍・吉宗が、自分の血統を残すために「種馬」として設立した徳川家の連枝です。
御三家(尾張、紀州、水戸)よりも将軍継承順位では上位に置いて、紀州系政権の安定を図ったのです。
子作り将軍・11代家斉は一橋の出身です。その意味では吉宗の狙いは成功しました。
家斉の家系が13代まで続きましたが、そこで吉宗以来の血筋が途絶えました。そこからが政権を巡る政争の始まりです。
一橋家は新規に設立した大名家です。先祖代々の家臣はいません。
そのくせ、10万石の大名です。10万石の大名というと、日本六十四州とは言いますが、それほど多くありません。
幕末時点で10万石に近い藩を抜きだしてみたら、13藩ありました。
注目すべきは藩士、士族の人数です。
明治2年のデータで、数値の根拠が曖昧ですが、藩士と言うのは役職についている地方公務員の数ですね。
士族と言うのは家族を含めた武士の総数です。これに女性や中間などがどこまで入っているか、わかりません。
しかし、戦国以来の大名家と、徳川家で大名になった家では、明らかに人数に差があります。
家系、歴史が長いほど抱える社員・藩士が多くなりますねぇ。
その分だけ固定費負担がのしかかり、大名家の経営が苦しかったと思われます。
一橋家の場合は、10万石の石高がありますが、藩士と言うか、旗本(従業員)が100人もいません。
普通の武門の家・大名家ではないのです。現代でいえば「宮家」のようなもので、皇太子や皇子を準備しておく家です。
京に上った将軍後見役の慶喜は孝明天皇からの信任も厚く、長州征伐の総司令官に就くのですが、10万石に相当する兵員、自前の軍隊・親衛隊が組織できません。
大将の周りに、直参旗本としての実働部隊がいないのです。格好がつきませんよね。伝令にすら事欠きます。
平岡円四郎が、渋沢栄一や喜作に「家来になれ」と誘ったのは・・・そういう背景です。
この状況で、栄一が大活躍します。一橋家の領地を駆け回り、慶喜親衛隊の義勇軍、志願兵を募ります。
藍玉の商売で身に付けていた説得力と言うか、宣伝能力と言うか・・・商売センスが領地の百姓たちを動かし、短期間に兵士の頭数を揃えることに成功します。
一橋10万石の中身
普通の大名家の領地は、まとまった本拠地があって、加増してもらった飛び地があちこちにある・・・と云うのが普通です。
江戸時代最大の藩は加賀百万石とですが、加賀・能登・越中の三国にまたがるとはいえ、まとまった地域を支配しています。
国 所領の村の数 推定石高・万石 武蔵(埼玉) 41 2,0 下総(千葉) 13 0,6 下野(栃木) 8 0,4 越後(新潟) 17 0,9 和泉(大阪) 47 1,5 摂津(大阪) 53 1,6 播磨(兵庫) 56 1・7 備中(岡山) 67 2,0 合計 302 10,7
先に挙げた10万石組の大名家も、だいたいまとまった地域の10万石です。
ところが、後発の大名家・一橋の場合はそうはいきません。右の表ように関東、関西に散らばります。
一か村の石高はどれほどか?
一概に言えませんが、関東の村は広い地域で500石ほどの租税収入があります。一方、関西は古代からの伝統的な区分けのため小規模の村落が多く、300石程度の村だったと思われます。
それを前提に推定石高を試算してみました。
少ない家臣団で、これだけ全国に散らばった領国の税収を管理できるのか?
所詮は・・・無理ですね。ですから実収入は半分以下?ではなかったかと思われますが、固定費となる高給取りの家臣がいませんから、財政に困ることはなかったと思われます。
これだけの領地がありながら、代官所は播磨の国・印南郡に一つしかありません。
この代官所で、関西から中国地方全域の6万石を管理していたと思われますが、その代官が、一橋の権威を使って、大名家と同等の経営をしていたと思われます。
代官には武士として、大名家としての、兵役のことなど、全く念頭になかったのではないでしょうか。
一橋家家臣となった栄一がどういう活躍をするのか?
ドラマの展開が楽しみです。栄一の算盤と、関西人の算盤が調和して面白い展開になりそうな予感がします。
そして、長州攘夷派が蜂起した…蛤御門の変へ。今回の番組で薩摩の西郷、慶喜総督が活躍する戦闘シーンにまで行くのか、見てのお楽しみですね。
京都御所の蛤御門周辺は、私にとって高校駅伝の観戦場所でした。
京都に単身赴任中に、毎年のように応援に行きました。が・・・わずか3kmの高速区間なので、応援しているチームを見つけるのも至難でしたね。一瞬に通り過ぎます。